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ドガ展

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 昨年末まで横浜美術館で開催されていた「ドガ展」ですが、このところ日本で数多く開催され食傷気味の印象派関係の展覧会の一つにすぎないのではないかと思え、あまり行く気はなかったところ、ドガの名前に触れる機会が、展覧会以外にも予期した以上に多かったこともあって、ちょっとだけ覗いてきました。
 やや時間が経過してしまいましたが、折角ですので簡単に触れておきましょう。

 例えば、最近、たまたまDVDでフランス映画『夏時間の庭』(2008年)を見たら(このブログの昨年11月20日の記事の(2)で触れましたが)、主人公の大叔父の遺産の中に、ドガの壊れた石膏彫刻があり(子供の時分に遊んでいて壊してしまったもので、小さな袋に詰められていました)、そんな物は価値がないだろうと家族達が言っていたにもかかわらず、寄贈先のオルセー美術館の修復担当者が見事に元通りにしていました。



 今回の「ドガ展」においても、ドガの類似の彫刻はいくつも展示されていました。


『右脚で立つアラベスク、左腕を前へ』

 また、少しさかのぼりますが、このブログの昨年2月20日の記事「ジャポニスム」のなかでも、ドガに触れたことがあります。
 すなわち、その記事で取り上げたブリヂストン美術館のHPでは、「ドガやモネら印象派の画家たちは、浮世絵などから日本的な要素を学んで取り入れ」たとして、次のような例示がなされています。
・「人物や事物を画面の端で断ち切って、スナップ写真のような瞬間性や偶然性を表したり、左右のどちらかに主要なモティーフが片寄っていたり、一部が極端にクローズアップされたり」すること。
・「俯瞰的に上から覗き込むような構図や、「枝垂れモティーフ」のように枝先の部分だけを描いて、画面の外に柳の存在を暗示させるという手法」。

 今回の「ドガ展」でも、そうした例示に対応するドガの絵はすぐに見つかります。
 前者については、例えば下記の絵では右端が断ち切られています。


『アマチュア騎士のレース―出走前』

 後者については、例えば下記の有名な『エトワール』は、まさに「俯瞰的に上から覗き込むような構図」といえるでしょう。



 さらに、ポール・ヴァレリーの『ドガ ダンス デッサン』(清水徹訳、筑摩書房、2006.12)も手元にあります。

 例えば、次のような箇所を引用してみましょうか。
 「ドガは生涯にわたって「裸体」をあらゆる面から考察し、信じられぬほど多数の姿勢を取らせた……、人体のしかじかの瞬間を、このうえなく明確に、そしてまた可能なかぎりの普遍性をもって定着させる描線の唯一無二のシステムを追求しつづけた。外見上の優美や詩情は彼のめざすところではない」(P.85)。
 下記の作品は、そんなドガの特徴がよく表れているのではと思います。


『浴後(身体を拭く裸婦)』

 なお、この作品については、没後のアトリエから、よく似た姿勢をとった下記の写真が発見され、これをもとに制作されたのではないかとされているようです。




 とはいえ、クマネズミのお気に入りの絵はこれです。何とっても、これほどまともにギターを演奏している姿を描いている作品には、滅多にお目にかかれませんから!


『ロレンソ・バガンとオーギュスト・ガス』

 
 とまれ、マネとかゴッホに飽きたら、今度はドガというところでしょうか?

海炭市叙景

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 『海炭市叙景』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)映画は、18の短編から作られている原作小説(佐藤泰志著)から5つの短編を取り出して映画化したとされています。
 ただ、原作ではそれらの短編の間に余り関連性が付けられていないのに対して、映画では、ある程度緩いつながりが見て取れるように制作されています。
 例えば、同じ市電に、別々のエピソードに登場する人物が乗り合わせているとか、その市電の前を、別の話の人が通りかかるなどというように。
 それでもそんな工夫が、それほど目立たないようにされていることをみれば、映画の全体の雰囲気もなんとなくわかってくるのではないでしょうか?
 この作品は、北海道の函館市と思われる「海炭市」という街それ自体を、どこにでも居そうな平凡な住民のありふれた日常のいくつかを淡々と描くことによって、逆に浮かび上がらせようとしているようです。



 ただここで単純なオムニバス形式をとってしまうと、むしろそれぞれのエピソードのストーリーとか登場人物の方に焦点が行きがちになってしまうのではないでしょうか?
 今回の映画のように、一見オムニバス形式のように見えるものの、極めて緩いながらエピソード相互の間でつながりを持たせておくと、それぞれの話が完結せずに開いたままとなって、映画全体、すなわち「海炭市」全体が、無論それといって把握できないですが、むしろ具体的に立ち上ってくるように思われます。

 映画の中の一つのエピソードについて、例示的に見てみましょう。
 そのエピソードでは、晴夫(加瀬亮)は、プロパンガスを販売するガス屋を営んでいるところ(原作では、「裂けた爪」という短編で扱われています)、事業拡大を図るために、水道の浄水器も販売しようとします。こちらの事業を担当するのが東京からやってきた博(三浦誠己)。ただ、浄水器販売のエピソードは原作には見当たらないようです。



 博は、夜になると、繁華街に繰り出してスナックに行きますが、これは、原作では「裸足」という短編に描かれています。
 同時に、博は、市電の運転手・達一郎(西堀滋樹:原作者と高校で同期)の息子でもあるようなのです。
 市電の運転手を巡るエピソードは、原作では「週末」という短編に描かれていますが、そこに登場する達一郎には、娘はいるものの息子はおりません。他方、映画においては、この親子には断絶があって、何年かぶりに博は父親の元に帰ってきたのに、ほんの少しだけ会って、連絡船で東京の方に戻ってしまいます。
 ちなみに、連絡船のエピソードは、原作では「青い空の下の海」という短編に描かれています。むろん、その短編に登場する男は、市電の運転手の息子ではありません。
 ところで、ガス屋の晴夫には小学生の息子がいるのですが、継母に苛められるストレスから、学習塾に行っているはずの時間に、プラネタリウムで星を見ています。そしてプラネタリウムを管理している市職員が、原作では「黒い森」という短編に出てくる隆三(小林薫)です。
 このつながりも、原作には描かれてはおりません。

 以上を見ても分かるように、映画においては、原作において分離して扱われている話や人物がつなぎあわされているのです。それも、中心となる5つの短編だけでなく、他の短編も様々に動員されているようです。
 そうすることによって、描かれている話に縦の厚みが出ているかというと、決してそうはならずに、次々にエピソードが映像としてあくまでも横に流れていくような感じを受けます。
 こんなことから、たくさんの人物が登場しますが、皆で海炭市それ自体を描き出そうとしているような印象を受けてしまうのではないでしょうか?

 映画の出演者のうち、見慣れた俳優を挙げてみましょう。
 まず、加瀬亮です。最近の彼に関しては、『アウトレイジ』における暴力団の組員といったところが記憶に残っていますが、本作品においても、プロパンガスを軽トラックから降ろす際に足の親指の上に落としてしまい身動きがならなくなって、届け先の暴力団の男の情婦に手当てしてもらうというシーンが印象的です。



 また、『おと・な・り』で好演した谷村美月が、映画の冒頭の物語において、戻らない兄を待ち続ける妹の役を演じています。『十三人の刺客』では、映画の冒頭近くで狂気の藩主・松平斉韶(稲垣吾朗)に手ごめにされる新妻の役をやったりと、そんなに出番は多くはないながら、印象に残ります。今回の作品でも、親を早くに亡くして兄と一緒に貧しい暮らしを営んでいる誠に地味な役ですが、彼女ならではの感がありました。



 その他、『ゲゲゲの女房』に出演している南果歩や、『休暇』の小林薫などを見ることができます。

(2)映画は、昨年見た『桜田門外ノ変』と同様に、地元(函館市)から相当の協力を得て制作されています。そのことは、劇場用パンフレットの末尾のページに記載されている協賛者リストの膨大さからも十分にうかがわれるところです。
 ですが、『桜田門外ノ変』のように退屈なシロモノにはなりませんでした。
 たぶん、『桜田門外ノ変』が歴史上の人物(地元からすると偉人)を描き出しているため、登場する個々の人物の人間的な幅に余り自由度を持たせることができなかったのに対して、この映画の場合には、ごく普通の庶民を描いている小説を下敷きにして制作されているために、等身大の人物像であることが地元によく受け入れられたからではないでしょうか?

 ただ、原作の舞台は海炭市というように、炭鉱もある街となっていて、現実の函館市とは相違しているところから、たとえば、最初のエピソードで描かれている兄の勤め先が、原作では炭鉱なのにもかかわらず、映画では造船所とされてしまっています。
 映画の冒頭、テレビに火災の映像が映り、他方で幼い兄妹が授業中にもかかわらず家に帰るように教師に言われます。はっきりとは説明されませんが、造船所で火災があって、彼らの親が遭難したようなのです。そのあと、大きくなった兄妹が二人で暮らしているシーンが写り、最初の物語が始まります。
 原作の方では、炭鉱の事故によって兄妹の父親が亡くなったことが書き込まれているところ、これは造船所よりも炭鉱でなくては、あまり説得力がないのではないでしょうか?
 それに、この後では、炭鉱に関係する事柄は何も物語に登場してこないように思え、だとすると、「海炭市」という都市の名前が宙に浮いてしまいかねません。

(3)渡まち子氏は、「暗くやるせないのに、不思議なほど穏やかな余韻が残る佳作」であり、「地味な作品だが確かな力を感じるのは、実力あるキャストが集まり、抑えた演技で作品をしっかりと支えているからだろう。特に、帰らぬ兄を待ちながら、懸命に寂しさに耐える少女を演じる谷村美月が印象深い。モザイク模様のように紡がれる物語のほとんどがやるせないもので、苦い喪失感が漂うが、ラストに描かれる老婆と猫のエピソードが優しい余韻を残してくれる」として70点を付けています。


★★★☆☆





キック・アス

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 『キック・アス』をシネセゾン渋谷で見てきました。

 先だっては、恵比寿ガーデンシネマの閉館が報道されましたが、今度はこの映画館も2月27日で閉館の予定だとか。26年間も続いたようで(ガーデンシネマは17年)、最近では『森崎書店の日々』、『恋愛戯曲』、『悪夢のエレベーター』など他ではあまり上映されない作品を観ることができたりして、クマネズミもよく利用していただけに残念です。

(1)さて、『キック・アス』ですが、登場する3組の家族が類似していることに注意が向きます。
 すなわち、主人公デイブ(実はキック・アス)の家族、ビッグ・ダディとヒット・ガールの家族、それにマフィアのボス・フランクとその息子クリス(実はレッド・ミスト)。
 主人公の家族は、当初は両親と息子の3人家族だったのですが、突然母親が食事中に脳梗塞で倒れて亡くなってからは、父親との二人暮らし。
 結果として、これら3組の家族からは母親の存在が十分にうかがわれないのです。
 こうなると、この映画は女性を排除したマッチョな作品なのか、もう一つの『マチェーテ』なのかと思われかねませんが、然にあらず。
 なにしろ、ヒット・ガールの活躍ぶりが甚だしいので、むしろ女性が見て溜飲を下げているのではないでしょうか?
 それも、11歳の少女が、ナイフを巧みに扱ったり、様々な銃を使い分けたり、長刀を振り回したり、垂直な壁を走ったりと縦横に暴れまわります。
 これを見ると、逆にキック・アスやレッド・ミストの軟弱ぶりが観客の目に焼き付いてしまいますし、ビッグ・ダディも影が薄い存在になってしまいます。結局は、男低女高の最近の流れと総体して違わないのかも知れません。

 というようなことは別にどうでもいいのですが、なにしろ登場人物とそれを演じる俳優陣が多士済々ですから、面白いこと請け合いの映画と言えるでしょう。
 まず、『ノーウェアボーイ』で主人公・ジョンを立派に演じたアーロン・ジョンソンが、まだまだ若い(20歳)にもかかわらず、こちらでは街のチンピラどもにボコボコにされる役を演じているのですから、その幅の広さに驚いてしまいます。
 悪との対決の場面では、大部分、ビッグ・ダディとヒット・ガールのペアの後塵を拝してはいるものの、最後には、ビッグ・ダディ開発のマシンに乗りながらヒット・ガールの危機を救うわけですから、やはり主役といえましょう。



 また、キック・アスらが立ち向かう悪人のトップ・フランコを演じるマーク・ストロングは、最近見た『ロビン・フッド』において、イギリス人でありながらフランスに内通しているゴドフリーの役を演じて強烈な印象を残しましたから、まさにうってつけと言えるでしょう。
 悪役だから仕方ないとは言え、『ロビン・フッド』では、海岸での戦いから逃げ出そうとしたところをロビン・フッドが放った矢で射殺され、この映画でもバズーカ砲で窓の外まで吹き飛ばされるという過酷な運命を担っています(『シャーロック・ホームズ』においても、原作には登場しないブラックウッド卿〔なんと絞首刑から蘇って活躍するという、これまた理不尽な境遇に置かれています〕を演じています)。



 それに、ビッグ・ダディを演じるのがニコラス・ケイジ。
 映画では彼はいつも主役を演じていますから、この映画でも、その存在感やバットマン張りの装束から、もしかしたら主役はこちらではと思わせますが、途中でフランコの配下に焼き殺されてしまうので、やはり主役はキック・アスなのだなとわかるような始末です。
 それにしても、ニコラス・ケイジも、随分と幅広く様々の作品に登場するものです。
 TVでチラッと見ただけながら、『ナジョナル・トレジャー』(2005年)でインディ・ジョーンズの縮小版ベン・ゲイツを演じたかと思うと、『バット・ルーテナント』(注)では麻薬におぼれながらも昇進を果たす刑事を演じたりと、ずいぶん忙しいにもかかわらず、こうした映画にまで登場するとは!





(注)『クロッシング』を取り上げた記事の(2)の中で触れておきました。


(2)ただ、この映画に問題があるとしたら、ヒット・ガールが行うたくさんの殺戮行為・暴力行為でしょう。



 父親のビッグ・ダディは元警官ですが、悪人フランコにより罠に嵌められ、無実ながらも刑務所に服役させられた経緯があり、出所後は復讐のために、娘のヒット・ガールとペアを組んで、フランコ一派を街から掃討しようとしているわけです。
 そのために、フランコ側はビッグ・ダディ側を一人も殺してはいないにもかかわらず、ビッグ・ダディ側は、フランコ一味をいとも簡単に殺しまくるのです。
 むろん、キック・アスが窮地に陥って殺されかかっているとか、ビッグ・ダディとキック・アスが手酷い拷問を受けて死の寸前という状況ですから、相手側を殺すのは仕方がないにしても、いくらなんでもこれではやりすぎなのでは、とも思えてきます。
 そう思うのは、なにも狭い日本での偏った道徳観によるというわけでもなく、劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」にも、この内容に「ハリウッドの大手スタジオが難色を示した」とあり、「配給されないかもしれないという危惧があった」と監督が認めた、などと記載されています。

 それはそうでしょう。小学生の女の子が、まるでゲームでもこなすかのように、色々な武器を片手に男の悪漢どもを次々に殺戮していくのですから!
 時あたかも、米西部アリゾナ州トゥーソンのスーパーマーケットの敷地内で、6人が死亡、13人が負傷しするという銃撃事件が発生しました(8日)。負傷者の中には、女性のガブリエル・ギフォーズ民主党下院議員(40)も含まれているとのこと。
 この事件に対しては、オバマ大統領が、「米国の悲劇的事件だ」との声明を発表したほどです(ここらあたりの事柄は、この記事を参照しました)。

 なにも、『キック・アス』のような映画が公開されるからこうした事件が起きるわけではないのでしょうし、また銃が社会にいきわたっているからこそこうした事件があまり起きないのだ、と議論することも可能でしょう(現役の米連邦議会議員の命を狙った銃撃事件は、1978年に民主党下院議員が殺害されて以来のことだとされますし)。
 でも、こうした映画が製作されて容認されてしまう社会が健全なのかどうかは、検討してもいいのかもしれません。

 ナーンテしゃっちょこばらずに、クマネズミのように、リメイク作の『十三人の刺客』で役所広司が「斬って斬って斬りまくれ!」と叫ぶのを認めるのであれば(注)、この映画でヒット・ガールが暴れまくるのだって、楽しめばいいのではと思います。たかが映画なのですから!


(注)元の『十三人の刺客』では、松平斉韶を斬った島田新左衛門(片岡千恵蔵)は、「無用の殺し合いを止めるよう、早く笛を吹け」と指図しますが、そちらを良しとするのであれば話は別になるかもしれません。


(3)渡まち子氏は、「この物語の本筋は、ビッグ・ダディとヒット・ガールの父娘が仕掛ける復讐劇にある。アメコミの大ファンを自認するニコラス・ケイジがビッグ・ダディを演じていて、復讐のために、まだ幼い娘を殺人マシーンに作り変えるというトンデモない父親を怪演。バットマン風のコスプレでハジケる様はハマりすぎて怖いくらいだ。同時に、ヒット・ガールを演じるクロエ・グレース・モレッツの凶暴な可愛さには、心底シビレた」、「この映画、おバカなふりをしているが実は案外テーマは深いのだ。とはいえ、難しいことは考えず単純に“面白がる”ことも可能。なかなか上手い脚本で、スミにおけない映画である」として75点も付けています。



★★★☆☆


象のロケット:キック・アス

モンガに散る

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 『モンガに散る』をシネマート六本木で見てきました。
 六本木にある映画館のうち、TOHOシネマズ六本木ヒルズの方には何度も行きましたが、こちらの映画館は初めてです。

(1)映画は、極道に生きようとする若者5人組を中心に据えているとはいえ、日本の“やくざ物”とはまったく違って、モンガという台北の商業的な中心地で青春を精一杯生き抜いていこうとする若者の姿を濃密に描いている作品といった方がいいでしょう。

 映画を見てまず気が付くのは、映画の前半と後半とでトーンがかなり違っている点です。
 すなわち、前半は、主人公のモスキート(マーク・チャオ)が、ドラゴンが率いる4人組に入って、ついには極道に生きようと決意を固めるまでが、羨ましいほどの明るさで描かれます。



 なにしろ、この5人組(「義兄弟」の契りを結びます)はまだ高校生なのです。といっても、学校へは殆ど行かずに、いつも5人は固まって、バイクを乗り回したり、風を切って通りを歩き喧嘩をしたりの毎日。
 特に、この喧嘩の描き方が素晴らしく、狭い路地で始まった素手による殴り合いが、瞬く間にモンガ中に広がってしまいますが、それを垂直に空中から俯瞰して映し出すと、まるで皆が讃岐の阿波踊りでも踊っているような、あるいは桜の花びらが舞っているような感じに見えます。きっと、ナイフなどの道具は使わず素手だけで殴り合いをすると、いつまでも決着がつかず、こんな広がりを見せてしまうのでしょう!

 これに対して後半は、5人組が山に籠って武術(銃は使わずに、蹴りや小刀や長刀を使うもの)を身につけた上で、山を降りでモンガのただ中で極道として生きる様が描かれます。



 弾けるような若さが強調された前半と違い、後半では、5人組は、早速大人の厳しい社会のただ中に放り込まれて、他のグループとの対立ばかりか、お互同士で対立することとなり、ついには、卑怯者しか使わないとされている銃が使われ、死に直面することになります。
 後半は、むしろ暗さが強調された重厚なシーンの連続となります。

 この前半と後半のトーンの違いを決定づけているのは、五人組が高校生活を離れて極道で生きる決意をしたことも勿論ですが、それのみならず、背後にある大陸と台湾との関係の変化です。
 というのも、この映画が設定している年代が、前半については1986年ですが、後半が1987年であり、その間の1年が重大なのです。すなわち、1987年には、悪名高い戒厳令(中国共産党の侵入を防ぐという目的で布かれる)が解除されて、大陸との往来ができるようになり、同時に、台湾に大陸極道が進出してきます。
 それまでの台湾は、高砂族などの原住民、おもに清の時代に大陸からやってきた本省人(漢民族)、それに国民党を支える外省人の3つの民族で構成されてきました。モンガを牛耳ってきたゲタ親分(マー・ルーロン)らの極道は、このうちの本省人でしょう。
 そこに、圧倒的な力と冷酷な思考を持つ外省人が乗り出してきたのですから、モンガの旧勢力はひとたまりもありません。
 折悪しく、5人組が極道で生きていこうと決意した年は、そうした激しい動きが始まったときであり、その中に丸ごと投げ出された彼らのうち、いったい誰が生き延びていくことができるのでしょうか、……。

 なお、こうした前半と後半のコントラストといった構造的な面からこの作品を見ると、上でも触れましたが、五人組が籠もって修行した山と、その下に広がるモンガの遠景との対比が印象的です。

 また、男と女という関係もあるでしょう。
 随分と薄められてはいますが、モスキートの母親と大陸極道の幹部ウルフ(監督のニウ・チェンザーが演じています)との関係や、ゲタ親分とその情婦との関係。
 ですが、なんといっても印象的なのは、モスキートと顔に大きな痣のある娼婦(クー・ジャーヤン)との関係でしょう。



 周囲の部屋からベッドインのきしむ音が聞こえてくるのに対して、2人が小型ラジオからイヤホーンの片方ずつを耳にはさんで音楽を聴いて紛らすというシーンは、極道になったにもかかわらず、モスキートに純粋さが依然として残っていることを象徴しているようです(注1)。なにしろ、モスキートは、その娼婦を買いながらも、一線を越えようとはしないのですから。
 あるいは、この純粋さが、この映画のラストシーンの複線の一つになっているとも考えられます。

 ただ、この作品をそんな構造面からばかり捉えていると、足元を掬くわれます。
 例えば、この映画のもう一人の主人公たるモンク(イーサン・ルアン)は、きわめて複雑な性格を持った随分と魅力的な人物として描き出されていて、2元的な対立軸から大きくはみ出しています。



 すなわち、
・頭脳優秀で学校の成績も抜群とされるものの、極道の世界に飛び込んでしまいます。
・その能力を見込まれて、ゲタ親分に預けられて育てられますが、あるとき、ゲタ親分が自分の父親の右手を切り落として親分の地位を奪ったことを知ってしまいます。
・「義兄弟」の契りに積極的に加わり、五人組を人一倍愛しながらも(ドラゴンに対しては特に)、ラストの方では彼らを大きく裏切ってしまったような感があります(注2)。

 全体としては、モンクは、旧来の伝統にしがみつこうとする本省人極道の中にあって、大層合理的な思考を身に着けていたことから、大陸極道の懐に入ってなんとかモンガの窮地を救おうとし、それが仲間に理解されなかったために(事情を前もって打ち明けるわけにはいかなかったために)悲劇を迎えてしまった、とも思われるのです。
 言ってみれば、中間者的な存在といえるでしょうか。
 このモンクを演じたイーサン・ルアンは、劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事の中で、モンクの「ドラゴンへの想いについて」は「答えをずっと出せないまま」であったし、結局「わからない」というのがその答えだ、などと述べていますが、それにしてもその演技は圧倒的で、特にその目つきには、深く吸い込まれてしまう凄さを感じました。




 この作品に問題がないわけではないでしょう。
 例えば、映画の始まりには、モスキートが転校生としてクラスに入ったり、他の高校生たちから苛められたりするシーンがあります。ただ、演じている俳優の実年齢と10歳以上も乖離しているのですから、いくらなんでも高校生には見えず、事情が分かるまで時間がかかってしまいます。
 ですが、そんなことは映画の全体からすればごく些細な点でしょう。


(注1)そういえば、映画『クロッシング』では、警察官(リチャード・ギア)が、通い詰めていた娼婦に一緒になろうと言ったところ、あっさりと振られてしまう場面がありました。ごく若いモスキートと定年退職する老いた警察官との立場の違いと言えばそうかもしれませんが、侘しい限りです。
(注2)実際には、モンクが、ドラゴンらを逃がそうと手を打っていたこと(映画の中では明示されてはいませんが)が、モスキートらには裏切り行為に見えたのでしょう。


(2)映画は台湾で制作された作品ですが、昨年のちょうど同じころに同じ台湾の映画『海角七号』を見て感動しましたから、因縁めいたものを感じてしまいます。
 それに、『海角七号』で町議会のホン議長をコミカルに演じていたマー・ルーロンが、この映画ではモンクを育てたゲタ親分を演じているのも、随分と親しみを感じさせます。



 ただ、『海角七号』では、日本との関係が随分と強調されていたところ、本作品では余りそういった面は見られません。
 といっても、モスキートが桜を見に日本に行きたいと言ったりしますし、またゲタ親分の「ゲタ」は「下駄」を指しているようなのです(注3)。

 この他、台湾関係の映画といえば、邦画『トロッコ』が専ら台湾を舞台にして、素晴らしいその自然や人情を描いていましたし、モット遡れば、『非情城市』(1989年)が、上で触れた戒厳令が敷かれる一つの切っ掛けとなった「二・二八事件」を描いています。


(注3)さらに、劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」によれば、ニウ・チェンザー監督は、「ゲタ親分を、“日本の統治時代に日本人の精神性を教え込まれ、結果として日本人の心を持った台湾人”として描いた」と言っています。


(3)渡まち子氏は、「まぶしい青春時代と失意に満ちた大人の世界。友情と裏切り。この映画の個性は鮮やかな対比にある。ラストシーンの悲しい美しさは近年でも屈指の素晴らしさだ」、「若い俳優たちは皆素晴らしいが、特に、主人公が憧れる頭脳派のモンクを演じるイーサン・ルアンが秀逸。モスキートに複雑な感情と意外な関係を持つ大陸ヤクザを、自ら演じるチェンザー監督の存在も印象に残る。80年代を代表する音楽で、甘いバラードでヒットを飛ばしたエア・サプライの楽曲を、ハイスピードカメラで活写する激しいアクションシーンに重ねるセンスも素晴らしい。台湾映画は、どこかこじんまりとしたアート系の作品というイメージだったが、それを見事に払しょくしてくれたのが嬉しい驚きだ。スピード感とアクション、スケールを感じる青春映画の秀作である」として85点の高得点を与えています。



★★★★☆




象のロケット:モンガに散る

しあわせの雨傘

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 『しあわせの雨傘』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)今更67歳のカトリーヌ・ドヌーブでもないのですが、昨年末に見た『隠された日記』がまずまずの出来栄えであり、これもまあ見ておいても損はしないのではと映画館に出かけてみました(彼女の出演作としては、もう一つ、恵比寿ガーデンシネマで『クリスマス・ストーリー』を上映していますが、これこそ今更クリスマスなんてという感じがして、行く気が起きません)。

 この映画では、スザンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、当初、雨傘製造の工場を経営する夫ロベール(ファブリス・ルキーニ)から、単なる置物的存在に過ぎないとされています。娘からも、母のようにはなりたくない、と言われてしまいます。
 ですが、実際の映像を見ると、とても「飾り壺(Potiche)」とは思えない、堂々たる貫禄がスザンヌには備わってしまっているのです。
 また、映画の冒頭では、カトリーヌ・ドヌーブが、なんとジャージ姿で、自然の中をジョギングしている様子が映し出されます。ですが、あの体躯では、とても長くジョギングなどできそうもありません。すぐに膝とか足首を痛めてしまうでしょう。



 というように(?!)、映画は、非常に不安定な場面から、長くはとどまってはいられないだろうと観客がスグに悟ってしまうような地点から始まります。
 案の定、夫ロベールが、その余りの権威主義的態度に怒った労働組合によって監禁されたり、心臓病の持病が出て入院してしまったため、「飾り壺」のスザンヌが、夫の経営してきた工場の経営を急遽担うようになります。
 すると、隠されていた経営の才が直ちに発揮され、経営陣と労働者との関係もすぐに好転してしまいます(この工場は、元々彼女の父親が経営していたのですから、それも納得できます)。

 この時点でこの映画が終わったら、やや短目ながらもそれはそれとして面白い作品と受け止められることでしょう。
 ですが、映画はそこでは止まりません。夫は退院すると、妻が用意した悠々自適の生活には目もくれず、元のポストに戻るべく秘密裏に様々な工作を行い、ついにはスザンヌから実権を取り戻してしまうのです。



 としても妻の方は、隠されていた才能の花がすでに開いてしまったものですから、最早元の「飾り壺」的存在には戻れません。驚いたことに、もっと上の位、国会議員のポストを狙うに至るのです。さあこの結末はどうなることやら、……。

 この映画はコメディータッチの作品であり、笑いを誘うシーンがたくさんありますし、カトリーヌ・ドヌーブが、映画の中で縦横無尽に活躍し、最後に歌まで歌ってしまうというオマケ付きですから、なかなか面白い作品と言えるでしょう。
 ですが、映画全体として何か落ち着きの悪さを観客に感じさせるのです。

 そう感じさせるのは、たぶん一つは、映画の時代設定が1977年とされていることからでしょう。なぜ、現代のお話としてはいけないのでしょうか?わざわざ30年前の設定にしなければならない事情が、作品の中にうまく見出せないのです。
 無理やり想像すれば、家父長的な夫ロベールに代わって、カトリーヌ・ドヌーブのスザンヌが、家族の友愛、あるいは母親の愛という精神に従って労働者と接すると、労働者の方もそれではと受け入れてしまうのですが、そんな雰囲気がその時代には見出されたということなのかもしれません。
 年代的には、ちょうど社会党のミッテラン大統領が就任する直前ですし(ジスカールデスタン大統領の末期)、その頃なら、共産党の市長(ドパルデュー)がいても、そして彼が経営陣と労働組合との仲裁に乗り出しても、おかしくないのでしょう(注1)。
 ただ、女性の社会進出、それも経営者として夫より優れた才能を妻が示す、ということを描き出したいのであれば、わざわざ30年も前まで時代を遡らせずともと思ってしまいます(あるいは、フランスのフェミニズムの高まりが30年前に見られたのでしょうか〔注2〕?)。

 それと、落ち着きの悪さを感じさせる今一つの点は、カトリーヌ・ドヌーブによって社長の座を奪われた夫が巻き返して、元の通り社長に返り咲く一方、妻の方は国会議員選挙に出馬するという、後半のストーリー展開が、前半とうまくつながるようには思えないことです。
 だって、「飾り壺」とされた妻が、経営者になるやその隠れていた才能を発揮して縦横に活躍するというだけでも十分に面白いストーリーですし、映画製作の目的はそれで十分に達成されているように見えますから!
 要すれば、後半は蛇足ではないかと思えるのです。

 としたところ、映画を見終わって劇場用パンフレットをパラパラ見てみましたら、「この映画の原案となったのは、10年ほど前にフランスで上演されたピエール・パリエとジャン=ピエール・グレディのブールバール劇(注3)「ポティッシュ」だ」とあり(河原晶子氏のエッセイ)、ただ、「演劇ではスザンヌが工場を引き継いで幕が下りる」のを、より「現代に通じる物語に変え」るべく、映画では、たとえば「夫が再び工場の支配権を握る」ようにしている(「Production Notes」)」とのこと。
 なーんだ、道理で、後半部分が取って付けたような感じになっているわけです!


(注1)もしかしたら、この映画には、現代のサルコジ政権が推進する市場メカニズムに基づく米英流の競争政策に対する批判が込められていると捉えることが出来るかもしれません。例えば、スザンヌの娘婿が、工場の海外移転などの合理化策を提言すると、自分たちの職場がなくなると詰め寄ってきた組合側に対し、スザンヌはそんな提言は採用しないと明言したりしています。
 ちょうど今の日本でも、小泉政権が推進しようとした市場主義に基づく構造改革に対する批判が巷に溢れているところ、この映画の雰囲気と類似していると言えないでしょうか?

(注2)このサイトの記事では、「1970年代のフェミニズム運動でフランスの女性は男性と同じ権利を手に入れた」とか、「女性は結婚したら家庭に入るというのが一般的だったのは1960年代まで。70年代後半からは子供がいても女性が働くのは当たり前」などと書かれています。

(注3)フランスで大衆に愛されてきた軽くて楽しいコメディ(同じ河原氏のエッセイより)。


(2)この映画は、もう一つ、奇異な感じを受ける点があります。
 すなわち、ロベール一家の長男ローランは、父親の後を継ぐ気は全くなく、芸術家志望で、特にカンディンスキーを愛好しているとのこと。こんなところでどうして前衛画家の固有名詞が飛び出すのかなと訝しんでいましたら、スザンヌが工場の経営を担うと、ローランは雨傘のデザインを任され、そこまでは構わないとして、あろうことか彼は、カンデンスキーの絵をデザインに取り入れることをしでかすのです!

 いったいどうしてカンディンスキーなのでしょうか?
 結局のところは、よくわかりません。
 ただ、ちょうど東京では、三菱一号館美術館で「カンディンスキーと青騎士」展(2010.11.23〜2011.2.6)が開催中です。頭を冷やすためにも、ちょっと覗いて見ることといたしましょう。
 としても、そんなことをしたらこの記事が長くなり過ぎてしまいます。続きは、明日掲載することといたします。

(3)渡まち子氏は、「エレガントなイメージのカトリーヌ・ドヌーヴのジャージ姿が見ものだが、それ以上に、平凡な主婦だと思っていたヒロインの意外な奔放さと底力にワクワクする」し、「飛躍した展開は、ミュージカルも顔負けのハイテンポだ。最後にはドヌーヴは歌まで披露してくれる。1943年生まれのこの大女優、全盛期と思われる時代は何度もあったが、ここにきて女優人生のハイライトが訪れているかのように、生き生きとしてみえる」として65点をつけています。



★★★☆☆




象のロケット:しあわせの雨傘

「カンディンスキーと青騎士」展

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 さて、昨日の記事から持ち越しになっていたカンディンスキーです。
 なんと、映画『しあわせの雨傘』の登場人物の口からカンディンスキーの名前が飛び出し、更には、彼の絵をこともあろうに雨傘の図柄に取り入れようともするのです!
 折よく、「カンディンスキーと青騎士」展が、東京丸の内にある三菱1号館美術館で開催中と聞いて、早速行ってきました。

(1)日本にはどうもカンディンスキー愛好者が多いらしく、2002年にも東京国立近代美術館でカンディンスキー展が開催されています。

 その際には、『コンポジションVI』(1913年制作、エルミタージュ美術館蔵)と『コンポジションVII』(1913年制作、トレチャコフ美術館蔵)の2点がメインの作品として出展されましたが、今回の展覧会では、下記の『《コンポジションVII》のための習作2』(1913年)がカンディンスキーの作品の末尾に展示されていて、これで10年近くの間隔を置いて二つの展覧会が繋がったかのような印象を受けました。




(2)今回の展覧会では、カンディンスキーの初期の頃の作品が多数展示されていて、どうやって後の抽象絵画が制作されるに至ったのか、その秘密がある程度垣間見れる感じです(2002年の展覧会でも初期の作品は展示されていましたが、後期の抽象画との繋がりというより、むしろその断絶の方を感じてしまいました)。
 なお、この展覧会では、その30代〜40代の作品が展示されているところ、彼は30歳の時に絵の勉強を始めていますから、「初期の作品」といえるでしょう(カンディンスキーの年譜はたとえばここで)。

 たとえば、この『ムルナウ―家並み』(1908年)です。風景画であることは明らかですが、様々の対象が抽象化の過程を歩んでいるようです。



 これが、次の『山』(1909年)になると、まだかなり具象的ながら、その抽象画の特徴が十分にうかがえる作品になっています。



 そして、『印象III(コンサート)』(1911年)。



 この作品については、ブログ「ART TOUCH」において、「まったくの抽象画とはいえない。グランドピアノや観客や柱らしきものが識別できるからだ。しかし、これがコンサート会場を描いたものだと知らなければ、それらの対象を識別するのは難しい。わたしは、この絵がシェーンベルグのコンサートの印象を描いた作品だと言うことを知っていた。実際に見れば、抽象画あるいは具象画、どちらにも見える。どちらか一方が、正しい鑑賞の仕方ということはないだろう」と述べられていますが、まさにそのとおりでしょう。
 この絵のそばにあるプレートでも、「中央上部の黒い色面はグランドピアノであり、2本の垂直の白い帯はコンサート会場の柱、画面の左下半分には、聴衆が幾つもの山形の黒い線と多彩な色斑によって表されている」云々と説明されていますが、描かれているものがそれぞれ具体的な事物と結びつけられていることがわかったとしても、この絵を理解したことには全然ならないのではと思います。

(3)カンディンスキーを愛好する傾向はフランスでも見られるようで(尤も、晩年は、パリ郊外に住んでいましたから、ある意味当然でしょうが)、ブログ「はじぱり!」によれば、2009年の夏にも、パリのポンピドゥー・センターでカンディンスキー展が開催さています。

 「はじぱり!」の記事では、彼が教官を務めていたバウハウスがナチス・ドイツに閉鎖され、パリ郊外に移住していた時期の作品「青い空」が取り上げられ、次のように述べられています。
 「表面上の明るさを超えて、どこか哀しげな気分を感じさせます。とりわけ、背景に塗られた青は、謎めいた小さな生き物たちの奥で、静かで騒々しく、安定しているようで不安定で、想像を絶する緊張感を発している・・・。」と述べられ、「カンディンスキーが生涯にわたって追い求めたものは、もしかしたら、いつも彼のそばにあって、彼の絵に生命を与えつつ、彼をもっと別の表現へと駆り立てていた、この「青い空」なのかも知れません」。

 「青」は、カンディンスキーにとって特別な色彩だったようで、wikiによれば、彼は、「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起こし、純粋さや、ついには超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ」と述べているとのこと。

 そして何よりも、今回の展覧会の中心である芸術家サークル「青騎士」の「青」なのです(注)!


(注)wikiによれば、カンディンスキーは、『回顧録』において、「「青騎士」の名前は、ジンデルスドルフの東屋のコーヒーテーブルに我々がいたときに考え出された。二人はともに青が好きで、マルクは馬、私は騎士が好きだった。そうしてこの名は自然に出てきたのだ」と述べています。


(4)さて、昨日のブログ記事から持ち越された問題は、映画とカンディンスキーとの関連性如何ということでした!
 単に、カンデンスキーの作品が雨傘のデザインとして面白いというだけでなく、何かそれ以上のものがあるのかな、ということなのですが(下記は、映画に登場する雨傘工場内のデザイン部門)。




 でも、どう考えてもよくわかりません。
 仕方ありませんから、ここではとりあえず、カンディンスキーの革新性、もっと言えば、その革命性に主人公スザンヌの長男ローランが惹かれて、友愛の精神あふれる工場で製作してみようという気になったのでは、と考えておくことにしましょう。

 というのも、上記の「はじぱり!」の記事に付したコメントで書いたことの繰り返しになりますが、カンディンスキーは、画家のサークル「青騎士」の首班として活動していたドイツから1916年にロシアに戻ると、2年後に教育人民委員会の造形芸術・工業芸術部のメンバーとなり、1920年にはモスクワの芸術文化研究所の設立に参画したりし(2002年「カンディンスキー展」カタログの「年譜」より)、「革命の余熱さめやらぬソヴィエトの、少なくともその初期において、カンディンスキーは美術政策を主導する重要なポジションに」いたようなのです(江藤光紀「ロシア・アヴァンギャルドとカンディンスキーの精神的水脈」〔雑誌『水声通信』2006年2月号〕)。

 あるいはまた、スザンヌの長男ローランが、カンディンスキーの愛の遍歴に興味をひかれているのかもしれません。
 ローランは、けっして金持ちの工場経営者のお坊ちゃんなどではなく、複雑な事情にあることが次第に分かってきます。つまり、彼が結婚しようとしている相手が、自分と浮気相手との間に密かにできた子供だとわかったロベールは、その結婚に対し頭ごなしに強く反対しますが、スザンヌはそれがわかっても何も反対しません。というのも、ローランがロベールとの間の子供ではなく、別の恋愛相手との間の子供だと知っていたからです。
 そんな彼には、カンディンスキーが似つかわしいのかもしれません。
 というのも、カンディンスキーは、モスクワで25歳の時に結婚した妻がいるにもかかわらず、30歳の時にミュンヘンに移住し、36歳の時に知り合ったガブリエーレ・ミュンターと10年以上生活を共にしますが、48歳で単身ロシアに戻ると、そこで別の女性と結婚してしまい、その後ロシアを離れますが、ミュンターとは会おうとしませんでした(下記の絵は、カンディンスキーによるミュンターの肖像画〔1905年〕)。



 今回の三菱一号館美術館の展覧会でも、35歳の頃〜10年余りの時期に撮られた写真がまとめて展示されていますが、そこにはミュンターとの別離を伺わせるような雰囲気は何も感じ取れません。その後二人の間に一体何があったのでしょうか?

ウッドストックがやってくる

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 『ウッドストックがやってくる』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)この映画は、題名からすると、1969年に開催された「ウッドストック・フェスティバル」を描いたもののように思ってしまいますが、実際には、ある青年の自立に至る物語であって、同音楽祭は、むろん大きなウエイトは占めてはいるものの、背景の一つにすぎません。
 なにしろ、最後に至るまで、この映画の主人公エリオットは、会場のただ中に入ってロックを聴くに至りませんし、実際の演奏状況を写した映像も画面で一切見られないのですから!

 ストーリー自体は単純で、主人公のエリオット(ディミートリー・マーティン)は、デザイナーでもあり画家でもありますが、自分の故郷のウッドストック(注1)で両親が経営するモーテルの窮状を見かねて、その再建に奔走し、ついにはウッドストック・フェスティバル開催に関与するに至るというわけです。

 開催までの作業過程で、次第に彼は、自分自身のことを身に沁みて自覚するようになっていきます。
 まず、ロシアから亡命してきたユダヤ人の子供であること。
世間から爪弾きされているヒッピーが大挙して集まるフェスティバルを開催しようとしていることで、地元に長く住んでいる者から、“このユダヤ人めが!”と激しく敵視されてしまいます(注2)。エリオットにしてみれば、寂れゆく故郷の町を何とか立て直そうとして乗り出したにもかかわらず、なにも積極的にやろうとしない地元民によって人種的偏見の標的にされる結果をもたらしたことに衝撃を受けます。
 次に、ゲイであること。
それまで何も意識してこなかったにもかかわらず、フェスティバル舞台作りを担当する技術屋と、ついにはベッドインするまでに至ります。また、両親の身辺を警護する者として、女装が趣味の元海兵隊員を雇いいれたりします。

 そして、フェスティバル最中には、その自立を促す準備的な体験をエリオットはします。
・会場の様子を見に家を出ますが、ものすごい人混みと車の列の中を移動するものの、結局身動きが取れなくなってしまい、会場には辿り着けませんでした。



・フェスティバル会場をはるか遠くに臨む丘で、バンの中にいたカップルから、質の良いクスリをわけてもらい、サイケデリックな感覚を味わいます。
・大雨でできた泥んこの坂道を、友人のベトナム帰還兵らと泥まみれで心行くまで何回も滑り降ります。

 この3つのエピソードのそれぞれでは、一見すると、同じことが何度も繰り返され、もっと端折ってもいいのではと思われてしまいがちですが(あるいは退屈してしまうかもしれません)(注3)、しかしながら、まさにそうした単調とも思える時間的経過があって初めて、エリオットは心の底から、親元を離れて自立しようとするのですから、とても端折ってしまうわけにはいかないでしょう。

 ともかくも、こうして、エリオットは、都会に戻っていくわけですが、エリオットという一人の個人の自立の話を、ウッドストック・フェスティバルの中で綴っていくには、あまりにも後者が世界史的出来事であり巨大すぎる、という感じをまぬかれませんでした。

 この映画の出演者のうち、主人公エリオットを演じるディミートリー・マーティンは、映画初出演ながら、ひょうひょうとした味のある演技をしています(下記画像の右側)。



 また、彼の友人でベトナム帰還兵であるビリーを演じるエミール・ハーシュは、『イントゥ・ザ・ワイルド』(2008年)に出演していました。さらに、エリオットとサイケデリックな感覚をともにしたバンの若者を演じるポール・ダノは、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2008年)で若き神父の役を演じて、これまた強く印象に残っています。



(注1)実際には、ウッドストック・フェスティバルは、アルスター郡ウッドストックではなく隣のサリバン郡ベセルで開催されています。
なお、ウッドストックはリゾート地で、wikiによれば、ニューヨークとの関係が、日本の東京と軽井沢に類似しており、また「多くの文化人や芸術家が集まる所として有名」だとのこと。道理で、エリオットの両親が経営するモーテルに併設されている倉庫に、おかしな前衛劇団が陣取っているはずです。
(注2)ラストでは、母親が密かに大金を貯めこんでいることが見つかってしまいますが、母親は、「将来の不安」を訴えます。これは、ユダヤ人に対する迫害を目の当たりにしてきた者ならではの防衛本能の表れと解することができるでしょう。
(注3)なにしろ、人混みと車の列はどこまでも同じように連続して続いていますし、サイケデリックな感覚を味わうと言っても、エリオットの脳内感覚にすぎないものですし、泥滑りはこれでもかというくらいに何回も繰り返されるのですから!


(2)息子が親から離れて一人立ちするというストーリーは、上でも触れた『イントゥ・ザ・ワイルド』で極限的に描かれていました。

 なお、父親と母親との関係について、エリオットは、ラスト近くで、「どうしてパパはあんなママと一緒になっているんだい」と疑問を呈します。というのも、母親は、いつもヒステリックで金もうけのことしか眼中にないような感じで、父親にもエリオットにも激しく当たり散らします。
これに対して、父親はいつも黙ってその言うことに従っています。
 エリオットの自立についても、父親は十分な理解を示す一方、母親は「わがままばかり言って」と分かろうとはしません。
 こんな有様を見て、エリオットは先の疑問を父親にぶつけるのですが、彼は「愛しているんだよ」と言うばかりです。

 ここで連想されるのが、第144回の芥川賞候補作に選ばれた小谷野敦氏の『母子寮前』(文藝春秋、2010.12)です。
 そこでは、あくまでも優しく母親に立ち向かうエリオットの父親とは違って、肺がんになった母親に向かって優しい言葉の一つもかけられない父親についての作者の激しい憤りが見られます(注4)。


(注4)たとえば、同書P.99では、次のような個所が見られます。
「その後、21日に再度がんセンターへ行くというので、私は、お父さんはついていってくれないのか、と電話口で質した。母はかすれた声で、「それがねえ……泣いて頼んだけど、やだって言うのよ」と言うので、私は再び怒りがこみ上げてきた。……、夜になって、弟に電話して、父の冷淡さを詰った。」


(3)映画評論家の村山匡一郎氏は、「映画はあくまで舞台裏から見たフェスティバル」を描きつつ、エリオットとその家族が再生していく姿を浮き彫りにする。3日間の祭りが終わった時、主人公は自由と希望の高揚感に浸りながら旅に出ることを父親に告げるが、その父親の表情も生き生きとしている。ウッドストックが個人の内面に変革の芽を与えたことを象徴するラストである」として★5つのうちの4つを与えています。



★★★☆☆



象のロケット:ウッドストックがやってくる

愛する人

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 『愛する人』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)映画の冒頭が出産シーンであり、ラスト近くでも幼い子供と一緒に戯れるシーンがあり、全体として子供を巡る物語といえますが、その場合なら常識的には、父親の存在が一番に描かれてしかるべきと思えるところ、映画はむしろ、父親を意図的に排除しようとしている(まるで「女系家族」を描いている)ようです。

 たとえば、主人公の一人カレン(アネット・ベニング)は、50歳を超える今も、生まれてすぐに養子に出してしまった娘のことが絶えず気にかかります(養子先の情報は、一切教えてもらえませんから)。そのことも一因なのでしょう、一緒に暮らしている病気の母親との間もしっくりいかず、また職場(カレンは理学療法士)での人間関係も酷くギクシャクしています。



 結局、その娘は、敏腕弁護士として登場するエリザベス(ナオミ・ワッツ)であることがわかります。ですが、その父親は一度だけ登場するにすぎません(カレン以外の女性と結婚していて、カレンが娘に抱く思いを共有することは、土台無理な話です)。

 また、エリザベスはエリザベスで、大変自立心が高い女性として描かれ、女児を産み落とすに至るものの、そして観客にはその父親が誰だかわかるにもかかわらず、映画の中では、父親がその女児に会うことはありません(通知されないのですから)。



 さらに、映画にはもう一つのエピソードが用意されています。すなわち、ルーシー(ケリー・ワシントン)とジョゼフとの間には子供が出来ないために、ルーシーの強い要望で養子を引き取ろうとしますが、ルーシーの家族としてはその母親しか登場しないのです。



 こうなると、この作品は、専ら女性(母親)と子供の関係を描いたものというべきであり、その意味で原題の「Mother and Child」が適切だと言えるでしょう。

 ただそうだとすると、本作品に登場する男性はどのように描かれているのでしょうか?
 カレンは、最後には同じ職場で働くパコ(ジミー・スミッツ)と一緒になりますが、彼は、カレンの身も蓋もない言い方・やり方(なにしろ、たとえば、パコの言い方が気に入らないと、パコを残して喫茶店を飛び出してしまうのですから)をいつも優しく受け止め、かつ適切なアドバイスまでするのです。



 また、エリザベスは、性的に大層奔放で、かつ男に縛られるのを極端に拒絶するものの、法律事務所で上司に当たるポール(サミュエル・L・ジャクソン)は、暖かく手を差し伸べようとします(結局は、エリザベスはそれも拒否して、悲劇を迎えることになってしまいますが)。
 このように女性の方は、それぞれの置かれた環境にもよるのでしょう、総じて性格に歪みがあり、男性側にとって決して付き合いやすい相手ではありませんが、それぞれ女性を優しく受け止めてくれる男性を身近に置くことができています。



 ここで問題となるのは、遂にはエリザベスが生んだ女児を引き取ることになるルーシーの場合でしょう。養子を迎えることで合意しながらも、最後になって「自分と血のつながらない子供を養育するのは嫌だ」と言った夫ジョゼフと別れ(それまでの面接の場などでジョゼフは大人しく事態の推移を受け入れていたように見えていたのですが)、その女児を迎え入れるのです。
 言ってみれば、自分の意見を受け入れてくれない男性は切り捨てるということでしょうか。
 逆に、ジョゼフの行動に、従来の男性社会の片鱗がうかがわれるということなのでしょう。



 映画でカレンを演じるアネット・ベニングは、ちょうど役柄とほぼ同じ年頃だとはいえ、実に魅力的で、前半の酷くギクシャクする人間関係を演じている時も、後半の柔和さが全身に現れている時も、実に的確な演技をしています。
 ですが、本作品は、何と言ってもナオミ・ワッツでしょう。
 職場の上司であるポールと性的関係を結ぶときも、隣に住む若夫婦の夫を誘惑するときも、絶えずポジティブな姿勢をとらずにはおれない性格ながらも、盲目の少女との出会いによって次第に心が和んでくるといった極めて複雑な役柄を、文字通り体当たりで演じているのですから!

(2)この映画は、仏映画『隠された日記』と類似する点があると言えるでしょう。
 すなわち、『隠された日記』においては、祖母ルイーズ、母親マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)、それに娘オドレイという3代にわたる関係が中心的に描かれていて、本作品における祖母、カレン、それにエリザベスの関係とパラレルと見ることができます。
 さらに、『隠された日記』における娘オドレイは、母親から自立をするためにカナダで絵の勉強をしているのですが、自立心の強さの程度は違うもののエリザベスと似ていると言えなくはありません。
 また、『隠された日記』においても、男性の位置づけはかなり小さなものになっています。祖父がサスペンスの鍵を握っているものの、登場時間はごくわずかですし、父親は娘を駅に出迎えには来ますがそれほど目立ちません(何と言っても、カトリーヌ・ドヌーブの母親の存在が大きいですから)。オドレイに会いにやってくる彼氏も、結局は彼女とうまくいきませんし。
 とはいえ、『隠された日記』は、全体がサスペンス仕立てになっており、他方本作品では、専ら養子制度の下での真の母親の位置づけと言ったことが中心的な話題となっていますから、雰囲気は相当違うとも言えるでしょう(尤も、エリザベスの母親がカレンであることは、最後の方まで明示的には明かされませんから、観客にはすぐにわかるとはいえ、ある程度のサスペンス性を感じることができるかもしれません)。

 なお、『隠された日記』でも触れたように、ここでも邦画『Flowers』と比較することもできるかもしれません。どちらも女系家族を取り扱っているという点では類似しているように思われます。特に、田中麗奈が演じる「翠」が、活動的な雑誌編集者として描かれているのは、この映画におけるエリザベスに通じるものがあるかも知れません。
 とはいえ、その際にも述べたように、この邦画は、6人の女優の競演という色彩が強いこともあって、それほど参考にならないでしょう。
 といっても、この邦画に登場する男性は、「翠」の結婚相手の男性(河本準一)をはじめとして、随分と心優しい人間ばかりというのは、『愛する人』同様と思え、こういう映画作りをすると、もしかしたら男性の役割は定型化すると言えるのかもしれません。

 全体的に見回すと、『Flowers』では、時間が過去から現在に向かって垂直に流れている感じを受けますが、『愛する人』では、時間の変化よりも位置の変化の方をより感じてしまいます。『隠された日記』は、両者の中間といったところでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「実力派アネット・ベニングの存在感と、現実でも当時妊娠中で、自身の妊婦姿を披露するほど入魂の演技を見せるナオミ・ワッツ、子供を産めず養子縁組を切望する黒人女性ルーシーを演じるケリー・ワシントンの名演は言うまでもないが、脇を固めるサミュエル・L・ジャクソンも見事だ。この物語には、悲痛な死もあれば新しい命もある。女性たちの思いが結実して誕生した小さな命が結ぶのは、未来への希望。陽だまりのラストシーンが、忘れがたい余韻を残してくれた」として75点をつけています。



★★★☆☆




象のロケット:愛する人

ソーシャル・ネットワーク

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 すでにグラミー賞の4冠を獲得していて、さらにアカデミー賞の最有力候補ともされていますから、早目に見ておこうと、『ソーシャル・ネットワーク』を吉祥寺のバウス・シアターで見てきました。

(1)この映画はFacebookの創始者であるマーク・ザッカーバッグ氏のことを中心的に取り上げていますから、実在する人物を主人公にしたreal story物と言えるかもしれません。

 といっても、まずもって、マーク(ジェシー・アイゼンバーグ)が作り上げたFacebookがどんなものであるかについては、映画で全く解説されませんし(アメリカ人なら誰でも知っているからなのでしょう)、ウィンクルボス兄弟が営んでいる「ハーバードコネクション」との違いがどこにあって、どうしてFacebookの方があれほどの人気を集めたかについても、映画からは全然わかりません。
 さらには、この映画において、マーク・ザッカーバッグの成功譚を描く際のよりどころとなっている訴訟の話にしても、ごく漠然としたことしかわかりません。映画で描かれている場所は何なのか、弁護士と一緒になって双方は何を議論しているのかなど、はっきりとしないのです。
 それに、いったいどうして、ウィンクルボス兄弟に多額の和解金を支払わなくてはいけないのでしょうか、また長年の親友であったエドゥアルド・サベリンは何をマークに要求したのでしょうか(注)?

 そこで、この映画は、マークの業績というよりも、むしろその人となりをある程度事実に即して描き出した作品と見ることができるかもしれません。
 でも、女子学生とのお付き合いは、冒頭でこそ大層印象深く描き出されてはいるものの、そして、付き合っていたエリカ(ルーニー・マーラ)に「最低な人物」と言われて、逆に「くそ女」とかブラジャーのサイズなどをパソコンで書き綴ったことがFacebookにつながってくるわけですが、それ以上のことはありません(ラストで、彼女のページを開いてパソコンを見つめているマークの思わせぶりな姿を映し出してはいますが)。



 では、マークの友人関係はというと、エドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)はギリギリまでサポートしてくれますが、結局は離反するに至ってしまいます。



 逆に、Napsterで有名なショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)の考え方に共鳴して、一緒に事業の拡大を図るものの、ショーンは薬物所持疑惑により逮捕されてしまい、マークのもとを去ることになってしまいます。



 こうして見ると、マークの周囲にいる人たちはみな彼から離反してしまうように見えます。そうだとすれば、なにもわざわざ映画にするような人物とはとても思えないところです(彼に、何か他に特別魅力的な才能があるようには描かれてはいませんし)。
 ただ、実際のところは、彼の築いたFacebookに全世界で5億人もの人が参加しているわけですから、彼をどこまでも支えた人たちが存在したことでしょう。ですが、そういった人たちは、この映画からは十分にうかがえないところです。
 といったところから、この映画でマークの人となりがうまく描かれているかというと、あまりそんな感じを受けません。

 それでは、この映画で描かれているのは一体何なのでしょうか?
 何だかよく分からないながらも、この映画は大層面白く、最後まで退屈させません。
 そこで、レトリックめいた言い草で恐縮ですが、映画自体が“Facebook”の機能を演じているのではないのか、Facebookが面白いのと同じような具合でこの映画が面白いのかもしれない、と言ってみたくなります。
 マークが付き合っていたエリカがボストン大だったことから、Facebookの範囲がハーバード大だけでなく、周辺の大学にまで拡大し、マークがロスアンジェルスに居を移すころはスタンフォード大も取り込まれ、さらにウィンクルボス兄弟がイギリスでレガッタをやる頃、ちょうどオックスフォード大とかケンブリッジ大にまで範囲は拡大しています。
 マークを含めて人々があちこちに激しく動き回ることで、付き合う人の範囲、いわば人脈がどんどん拡大するのと軌を一にして、Facebook自体も拡大しているように見えます。まるで、マークらは、パソコン内を高速で飛びまわる信号のようです。

 こんなことは単にそう見える程度の話かもしれませんが、とにかくそうでも考えないとこの映画がなぜ面白いのか、うまく言い当てられない気がします。
 とはいえ、そうだとしても実のところ、この映画がグラミー賞の4冠を獲得し、さらにはアカデミー賞を狙うほどの感動作なのかといえば、クマネズミには理解力が不足しているのでしょう、そうは思えなかったところです。


(注)映画の中では、エドゥアルドの収益を確保すべきという提案をマークが否定したりしていますから、Facebookの収益源がどこにあるのか、観客にとっては分からず仕舞いとなります。ただ、このサイトの記事を読むと、時点は若干古いながら、実際のFacebookは、やはりきちんと収益源を確保していることがわかります。


(2)映画の中で、ウィンクルボス兄弟は、マークが自分たちのアイデアを盗用したのではないかと訴えに、ハーバード大学の学長(ダグラス・アーバンスキー)に会いに行きますが、この学長は、クリントン政権で財務長官をやり、オバマ政権では米国家経済会議議長だった経済学者のローレンス・サマーズ氏をモデルにしています。
 学長は、兄弟の訴えに対して、実に尊大な態度をとり、学生間の争い事に対して学校側は介入しないと言って、全く取り合いません。映画で見られるこうした態度は、実際の人物を髣髴とさせるようです。
 ローレンス・サマーズ氏は、研究者として顕著な業績を上げていることもあるからでしょう、どこへ行っても尊大な姿勢は崩さず、その結果敵対者を多く作り出してしまい、ついには、学長であった2006年に、女性が科学で優秀な成績をあげられないのは素質の差だと受け止められてもおかしくないような発言をして大学の内外から激しい批判を浴び、ついには同年6月30日に学長を辞任しているのです(ここらあたりはwikiによります)。
 そんな彼が、知ってか知らずか、女子学生のランク付けから出発したFacebookに結果的に肩入れしたことは、興味深いことだなと思います。
 ちなみに、本年1月下旬にスイスで開催された「ダボス会議」に出席した際に、菅総理は、12人の「有識者」を招いた会合を持ちましたが、そのなかにこのサマーズ・ハーバード大学教授も含まれていました。

(3)渡まち子氏は、「ネット世代の若者の実体を、若手俳優のジェシー・アイゼンバーグが見事に演じてみせた。某大な量のセリフの中に、他人の痛みに無頓着で、時に幼児性さえ感じさせる難役。今までインディーズ作品中心に活躍していたアイゼンバーグが、意外なほどの底力で主人公の屈折と悲哀を演じき」っていて、「確かなのは、21世紀の反体制は、ネットの海の中で誕生するということ。同時代性こそ、この映画最大の魅力である」として、85点もの高得点を与えています。



★★★☆☆



象のロケット:ソーシャル・ネットワーク

ヤコブへの手紙

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 『ヤコブへの手紙』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)この映画は、さあこれからさらにどんな展開がというところで幕となります。ただ、そういう思いにさせられるのは、映画のそこまでの展開からのことではなく、単にその短さのためです。終わってみれば、確かにあの時点で幕ということは理解できますが、なにしろたったの75分の作品。このところ2時間を超える映画を見つけているせいでしょう(たとえば、『モンガに散る』141分、『海炭市叙景』152分)、その半分の長さでは見る方にどうしても食い足りなさが残ろうというものです。

 でも、この映画は、その規模の小ささが逆に売りなのかもしれません。主な登場人物はわずか4人、それも主人公に仮釈放のことを伝える刑務所長は最初だけですから、実質的には3人で構成される映画といえます。

 主人公は、12年間入っていた刑務所から仮釈放された40過ぎの女性レイラ。彼女は、当てがないこともあり、仮釈放されるとヤコブ牧師の元に行きます。といのも、牧師からは、目が見えないので、自分のところに送られてくる手紙を読んでもらいたいという要請があったから。
 レイラは、牧師の家へ行くと、どうやら彼の申請により自分は仮釈放されたことがわかってきます。自分としては終身刑のつもりであって、こんな風に社会に放り出されたいとは思っていなかったところから、余計なことをしたと牧師に辛く当ります。
 ついには、牧師を冷たい礼拝堂の中に放り出したまま、家に戻って自殺までしようとします。
 ちょうどそこに、やっとの思いで牧師が戻ってきて、自殺を思いとどまったレイラと向き合い、そしてそこから物語はやや明るさを取り戻してきて、レイラも心を開くようになって……。

 レイラは、前半では、周りから差し出される援助の手を振り切って、自分の中に頑なに閉じこもり、周囲に対しては冷たい態度しか示しませんが、心が開かれる後半になると若干ながら眼差しが変わってきます。そうした微妙なところを、レイラを演じる女優(カリーナ・ハザード)が大層うまく演じているなと思いました。



 また、ヤコブ牧師を演じるヘイッキ・ノウシアイネンは、実際は65歳にもかかわらず、まるで80歳すぎの老人の感じを出していて、その言動が確かな説得力を持つに至っています。



 『ソーシャル・ネットワーク』といった超現代的なテーマを扱っている映画を見た後では、設定が現代に近いところとされているにもかかわらず、パソコンや携帯電話などの先端的なIT機器を何一つ登場させずに、大自然の中で静かに暮らす様(とはいえ、心の中は激しい葛藤があります)を描いている本作品は、一杯の清涼飲料のような効果をもたらします。

(2)劇場用パンフレット(注)にも記載されている点ですが、この映画の謎は郵便配達人(ユッカ・ケイノネン)でしょう。これまでずっと毎日のようにヤコブ牧師に郵便を届けてきたところ、レイラが牧師の家にやってくると、途端に郵便物が届かなくなってしまうのです。それに、夜中に、牧師の家に忍び込んでも来ますし、なぜか使っている自転車が新品になるのです。
 その種明かしはされていませんが、見る側としてはこの人に注目せざるを得ません。



 なにより、この映画は、郵便配達人が郵便物をヤコブ牧師に届けなくなってから、局面が実質的に大きく変化するのです。
 元々ヤコブ牧師は、届けられる手紙に書かれている相談事・悩み事に対して、相談者を力づけるように聖書を引用しながら答えを用意することで、毎日を過ごしてきました。
 ところがそれがトンと来なくなったものですから、牧師は、却って自分を見つめ直す時間が出来たのでしょう、ついには、手紙に返事を出すことで相談者に生きる力を与えてきたとこれまでは考えていたのですが、むしろ、自分自身こそが手紙によって生かされていたこと、そういう真の自分の姿に思い至ります。

 あえて言えば(単なる一つの解釈に過ぎませんが)、これまで届けられた手紙は、まさに手紙の体裁をとってはいるものの、本来的な手紙、真の意味でヤコブ牧師に届けられるべき手紙ではなかったのかもしれません。 
 そうした非本来的な手紙が来なくなったという事実がヤコブ牧師に送り届けられたことによって、ヤコブ牧師にとってはそれこそが真実の手紙―いわゆる手紙の外見をしてはいませんが―となったのではないでしょうか?
 そんな真実を手にした牧師を前にすれば、レイラは自分の犯した犯罪のことを包み隠さず打ち明けることもできたのでしょうし、これから生きていく方向も見出せたのでしょう。
 レイラも、自分の過去を語る前に、雑誌のページを破って音を立てて封筒を開けたように見せかけ、あたかも実際の手紙を読んでいるかのようなふりをして、牧師に話すのです。無論、牧師の方も、そんなことはスグに分かります。真実をつかむためには、現実の手紙は却って邪魔になる、むしろ真実そのものが手紙なのだ、ということなのかも知れません。
 ただ、牧師の方は、そんな真理を得たことの代償を払わずにはいられないのでしょう、レイラにコーヒーを振る舞おうと家の中に戻りますが、……。


(注)通常の冊子形式ではなく、映画にちなんで封筒の中にはがきや手紙の形式で差し挟まれていて、そのアイデアには驚きました。

(3)そういえば、3年ほど前に、同じフィンランドのカウリスマキ監督の『街のあかり』を見ましたが、そちらも本作品同様こじんまりとした映画でした(78分)。
 とはいえ、街の暴力団や、その女、宝石商強奪事件、等々、内容的には激しいところがあります。でも、何度も女に騙されながらもなんとか認めてもらおうとグッと堪える主人公とカ、路面電車が走るヘルシンキの街の様子などは、いかにも北欧的だなと思わせるところがあります。

 なお、フィンランド関連のことは、『トイレット』についての記事の(2)の注をご覧下さい。

(4)渡まち子氏は、「まるで善悪両方の境界線のような謎の郵便配達人の存在が、この映画の不思議な余韻の原因のひとつかもしれない。役者はほとんどなじみがないし、監督のクラウス・ハロも日本では無名に近い。だが優しくて清廉なこんな作品を作るハロ監督という人に、今後注目してみたくなった」として75点を与えています。



★★★★☆



象のロケット:ヤコブへの手紙

アンストッパブル

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 『アンストッパブル』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)こうした作品なら、何はともあれ大画面で音響の素晴らしいところと思って有楽町まで出かけましたが、期待どおりでした。何しろ、運転手なしに暴走し続ける貨物列車をストップさせなければ、市街地に突っ込んで積載物が爆発し大惨事になるという設定ですから、映画が終わるまでハラハラドキドキのし通しといった具合になります。

 この映画ではペアの組合せが随分と出てきて、それぞれその内部に鋭い対立を抱えています。
 まず何と言っても、市街地スタントンの方に向かって驀進する無人の機関車777号と、それを後ろから追いかけてドッキングしようとする旧式機関車1206号という組合せ〔2つの機関車はいずれも電気式ディーゼル機関車(ディーゼルエンジンで発電し、電気モーターを回す方式を採用)〕。
 これを十分に描き出すことがこの映画のメインなのでしょうから、他に映画に登場するものがどれもペアの組合せになろうというものです!
 例えば、暴走する機関車777号には、見学の児童が多数乗っている列車というもう一つのペアがあります。列車は777号と正面衝突しそうになりますが、間一髪のところで待避線に滑り込んだため惨事は免れます。
 また、機関車1206号は、ペアを組んでいた長大な貨物車両を切り離して、身軽になって777号を追いかけます。

 列車がメインとはいえ、映画にはやはりヒーローが必要になります。すなわち、旧式の1206号の機関室に乗り合わせたベテラン機関士のフランク(デンゼル・ワシントン)と新米車掌ウィル(クリス・パイン)との組合せ(注)。
 この組合せは、単なるペアではなく、その中に、黒人と白人、機関士と車掌、ベテラン(勤続28年のフランク)と新米(4ヶ月のウィル)、解雇通知を受けた者と新規採用の者、といった一層深い対立関係を含んでいます。



 さらに、フランクには娘二人がいますし、ウィルも妻と幼児がいますが、それぞれフランクやウィルとの関係がかなりぎくしゃくしています。
 また、会社側をみると、列車指令室には操車場長コニー(ロザリオ・ドーソン)が、会社の会議室には運行部長がいます。コニーはフランクの言い分を受け入れますが、運行部長は、会社上層部の意向を慮ってフランクの言い分を受け入れようとはせず、二人は激しく言い合います。
 加えて、元々777号の暴走を引き起こした操作ミス(ブレーキをかけ損なった)に絡むのが男性2人組みなのです。

 こうした様々な二項的な組合せ、対立関係を描き出すことで、単なる機関車の暴走という次元を越えて、物語に厚みが出てきていると思われます(暴走する機関車をストップさせることに皆が必死になる中で、いくつかの対立は解消に向かっていきます)。

 ですが問題点もあると思われます(以下は完全にネタバレになります)。
イ)1206号が暴走する777号に追い付いても、ブレーキの役割が果たせなかったわけですから、連邦の職員が理論的には大丈夫だと請け合った方法は役に立たなかったことになるのではないでしょうか?にしては、その職員の態度が格好良過ぎる印象を受けました。

ロ)最後の手段として、フランクは、個々の車両についている手動ブレーキを使うことにしますが、その際貨車の天井やタンク車の上部を駆け抜けます。ただ、そんな危険なことが可能であれば、777号のスピードはそれなりに落ちてきているはずですから、ヘリコプターを使って、もっと何人もの関係者を貨車に送り込めるのではないでしょうか?



ハ)最後の方で、ウィルが、機関車に伴走している車に一度飛び降り、それから777号に飛び乗りますが、彼は足を酷く負傷しているはずですから、何も彼でなくともよかったのではないでしょうか?
 むしろ元気な機関士を車に乗せて、777号に飛び移らせた方が現実的ではないかと考えられます(それに、飛び移れるくらいなら、ヘリコプターで空中から飛び乗れるのでは、などと思ってしまいますが)。

 とはいえ、あくまでも、生き物のように暴走する機関車と、フランクとウィルの英雄的行為をクローズアップするのがこの娯楽映画の大きな狙いでしょうから、そんなつまらないことに拘らないで、ハラハラドキドキすれば十分ではないでしょうか。

(2)暴走する列車という点に関しては、さすがに、ブログ「映画のブログ」においてナドレックさんが、実際には企画だけで流れてしまった黒澤明監督の『暴走機関車』に触れておられますが(注)、暴走するものを何とかしてストップさせるということに関してなら、『スピード』(1994年)があるかもしれませんし、また執念深く追いかけてくるトレーラーを描いた『激突!』(1973年)も、最後の最後まで手に汗握る暴走物と言えるのではないでしょうか?


(注)参考文献としては、「映画のブログ」の注で挙げられているものの他に、田草川弘著『黒澤明vs.ハリウッド』(文藝春秋.2006年)P.48〜P.62があります。

(3)渡まち子氏は、「物語はさまざまな方法で列車を止めようと試みるフランクとウィルの八面六臂の活躍を活写。そこまでするか?!の無謀な作戦も含めて、手に汗握る展開だ。残念なのは、フランクとウィルの家庭のトラブルがチラリと描かれるが、これがあまり効果的ではなく、かえってスピード感を削いでしまったこと。しかし、2人をサポートする操車場長コニーを演じるロザリオ・ドーソンと、デンゼルたち2人の場面の切り替えが、アクション映画に人間性をプラスする効果を与えていた。それにしても、こんな恐ろしいことが実際にあったとは。乗客がいたらどれほどの惨事だったかと思うとゾッとする」として60点を与えています。



★★★☆☆





象のロケット:アンストッパブル

ソウル・キッチン

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 『ソウル・キッチン』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)事前の情報を全く持たずにいたものですから、最初は韓国の首都にあるレストランの話なのかなと思ったりしていたのですが(『カフェ・ソウル』の連想から)、実際には映画は、ドイツのハンブルグにあるレストランを巡る実に楽しいお話でした。

 レストランといっても、だだっ広い倉庫を改造しただけのものながら、庶民的な料理を低価格で出すことから、常連客はついているようです。
 レストランの若きオーナー兼シェフのジノスが主人公ですが、様々の災難が一度にその上に降りかかってきます。
 たとえば、
イ)恋人ナディーンが、突然上海に特派員として派遣されることになります。
 ナディーンとのコミュニケ―ションはスカイプを使って行っているものの、ジノスはイライラが募ってきて、自分も上海に行きたくなってしまいます。
ロ)高級レストランのシェフだったシェインを雇い入れたところ、庶民的な料理を求めていた常連客にそっぽを向かれてしまいます。
ハ)重い食器洗浄機を動かそうとしてジノスは椎間板ヘルニアを引き起こしてしまい、暫く身動きが取れなくなってしまいます。

 こうした数々の災難は、レストランで披露されるバンド演奏につられてやってくるお客が増えてくることから、次第に解決の方向に向かっていきます。でも単純には物事は運ばずに、何度も危機が訪れて、そして……。

 さて、映画で興味深いのは、
イ)ドイツ映画であってドイツ語がメインながら、監督ファティ・アキン氏はドイツ在住のトルコ系移民であり、またギリシア系移民である主人公のジノス(演じるアダム・ボウスドウコスも両親がギリシア系移民)をはじめとして、映画の中では様々の人種が入り乱れます。



 ジノスの恋人ナディーンは、中国から帰国する際に中国人を連れてきますし、シェフのシェインを演じる俳優はトルコ南部の出身、ジノスの椎間板ヘルニアを診る理学療法士アンナを演じる女優はハンガリー生まれなのです。
 そして、アンナがジノスを連れていく整体師も、「骨折りケマル」といわれるトルコ人で、その待合室にはドイツ語新聞は置いておらず、トルコ式チャイが患者に振る舞われます!とはいえ、大きな病院で高額の手術を受けなければ一生半身不随だとされたジノスの椎間板バンヘルニアが、映画ではこの代替医療で完治してしまいます。

ロ)たまたま映画を見た日の前の回では、トークショーが行われ、出演した音楽評論家のピーター・バカラン氏の姿を映画館の入口のところで見かけましたが、映画のゴージャスなところは様々の音楽をふんだんに聴くことができる点でしょう。
 なにしろ、バンドマンのルッツが「ソウル・キッチン」の従業員であり、時間があると店でリハーサルをしていますし、またジノスの兄イリアスは、DJセットを盗んできて、レストランでレコードをかけまくるのですから!



 ただ、音楽のこと(さらには、映画に登場する料理のこと)は、劇場用パンフレットの解説に任せることといたしましょう。
 なお、映画『ノーウェアボーイ』のラストが、ジョンの「ハンブルグに行く」という言葉でしたから、この映画でも何かビートルズ関連のことがあるのかなと思いましたが、そうは問屋が卸しませんでした。

ハ)公的な事柄が随分と映画の中に入り込んできます。
・市の税務当局がレストランまで出向いてきて、滞納分を徴収しようとします。
・旧友ノイマンが、レストランの敷地を取得しようと、市の衛生当局を突き動かしてレストランの厨房を検査させたため、ジノスは短期間のうちにリフォームせざるを得なくなります。
・刑務所の内部が2度ほど映し出されます。
 1度目は、兄イリアスが仮出所が認められ、刑務所内の通路を通って外に出るところ。
 2度目は、イリアスが再度捕まって刑務所内を移動している姿とか、面会室でルチア(ジノスのレストランで働いている画家志望の女)と会っているところ。

ニ)レストランが置かれている具体的な場所が、大体のところ地図上に特定できるのです。
 というのも、旧友のノイマンにレストランの場所を聞かれて、ジノスは「ヴィルヘルムスブルクのインダストリー通り」と答えるのですが、それを手がかりにGoogle Mapのストリート・ビューを使うと、実際にもインダストリー通りの中間点あたりに、映画に登場するレストランによく似た建物が線路の脇に設けられていることが分かります!
 映画のロケ地を地図で探せるなんて、映画を2度以上も楽しめることになります。

 さらに、ジノスはハンブルグの街中にあるマンションから、市の南方にあるレストランに通っていますが、使う電車がs-Bahnであり、Wilhelmsburg駅で降り、そこからバスを使ってレストランに出向いているようです。
 映画では、s-Bahnの電車がたびたび画面に登場します。中でも印象的なのが、運河を跨ぐ鉄橋を通過するシーンでしょう。



 とにもかくにも、この映画は、そのストーリーと言い、出演する俳優と言い、また、音楽、料理等々、滅多矢鱈と興味深い要素が詰まっていて、稀にみる面白さを持った作品と言えます。

(2)上で書いたように、この映画の監督ファティ・アキン氏はドイツ在住のトルコ系移民ですが、最近TVニュース(NHK「海外ネットワーク」2月5日)で、ドイツのケルン市において、約 1,200 人の信者を収容できる大規模なモスクが建設されていることに対して、ドイツ人住民から反対運動が巻き起こっているとの報道がなれていました。
 ケルン市は、いまや10人に1人がトルコ系住民であり、市当局も、トルコ人移民はドイツ社会の一部だとして当該モスクの建設を許可したとのこと。
 ですが、ドイツ人住民からすれば、固まって暮らすトルコ系住民たちは、ドイツ社会の中に溶け込もうとしない異質分子と見えるようで、一昔前のユダヤ人差別につながるような感情を持っているようです。
 ただ、ユダヤ人とは、自分たちでまとまって暮らしているところとか宗教が一般のドイツ人とは別という点などで類似しているものの、言葉がトルコ語であり、食事の内容も異なるし、特に女性の地位が低いことはお話にならないようです。

(3)映画評論家・土屋好生氏は、「確かにこれは港町の片隅に花咲く特殊な移民の物語ではない。が、この国に足場を固めた移民2世による、新しいドイツの顔がここにはある。トルコ系の監督とギリシャ系の主演俳優、そして助演のドイツ人俳優。来るべきドイツ映画の新しい波を予感させる布陣であり、同時に、そこに「移民国家ドイツ」の明日の姿を見るような感覚に襲われるのである」と述べています。



★★★☆☆


ちょんまげぷりん

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 休日にもかかわらず雪の時は外へ出るのも億劫となってしまい、家でTSUTAYAから借りてきたDVDを見ることにしています。今回は、昨年評判だった『ちょんまげぷりん』を見てみました。

(1)こういう映画を見ると、仮に江戸時代の武士が現代に登場することがあり得たとしても、現代の日本人とこんな風にスムースなコミュニケーションが可能だとは思えないと言ってみたくなったり、安兵衛が遊佐ひろ子と友也と遭遇した時は大層空腹だとされていますが、その前に何よりトイレの問題はどうしたのか、などといった日常的なことが気になってしまいますが(注1)、そこはファンタジーなのだからとすべて目をつぶってしまえば、あとは大層楽しく映画を見ることができます。

 何しろ、それぞれが全然違った世界に属しているはずとは言いながら、同じ日本人の顔をして同じ日本語をしゃべるのですから(注2)、それにそれぞれの世界についてごく普通に想定されている範囲内で話題も提供されますから、それほど違和感なく受け入れることができます。
 たとえば、極めて礼儀正しい武士の世界と不躾極まりない現代の世相、男尊女卑の江戸時代と女性の社会的進出が著しい現代、などといった枠組みはお馴染みのもの、確かに指摘されるとその時はハッとはしますが、毎度聞き慣れていることゆえ、そんなお題目はスッと通り過ぎてしまいます。
 とにもかくにも、かる―い感じでおもしろがればそれで十分なのではないでしょうか?

 特に、江戸時代の武士である木島安兵衛が、ほかでもない実に現代的なスイーツ作りに関して天才的な才能を持っているという着想は素晴らしいものがあり、スイーツ作りコンテストに参加した安兵衛と友也が、立派な天守閣をこしらえて優勝してしまうというのも実に面白いストーリーだと思います。

 主人公の木島安兵衛を演じる錦戸亮は、NEWS及び関ジャニ∞のメンバーで映画は初出演・初主演とのことですが、それにしてはたいした演技力だと感心しました。『愛のむきだし』の西島隆弘に匹敵するとも思えるところ、西島の『スープ・オペラ』に相当する第2作目が期待されるところです。



 また、木島安兵衛を自宅で面倒を見るシングルマザーの遊佐ひろ子を演じるともさかりえについては、クマネズミは映画でほとんど見かけませんでしたが、こういう役柄もとてもうまくこなす女優さんなのだと見直したところです(注3)。





(注1)元々、安兵衛が江戸時代に戻ってプリンを作ったとしたら、歴史が変わってしまいますから、タイムトラベルに関する原理的な問題を抱えています。
 それに、日本では明治になるまで牛乳はほとんど飲まれていなかったようなので、プリンを作る上で重要な材料が簡単には入手できなかったのでは、と思われます。
 また、江戸時代の人が、どうしてスイーツ作りに関する才能をもっているのか謎ですし、仮にそうした才能があるとしたら、もっと独特なスイーツを作り出して現代人をアッといわせるということも考えられるでしょうが、そこまでの踏み込みはありません。

(注2)「マンガ大賞2010」と「第14回手塚治虫文化賞(短編賞)」を受賞したヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)とは、この点が大きく異なります。と言うのも、後者では、ローマ時代の浴場技師のルシウスが現代の日本にタイムスリップするというのですから!平たい顔族の日本人とは、ラテン語しか話せないルシウスはうまくコミュニケーションが取れないのです。




(注3)同じように身長のある女優・吹石一恵が、『ゲゲゲの女房』などで成長著しいのと比べると、今一の感は免れませんが。


(2)この映画に関しては、登場人物として遊佐ひろ子とか安兵衛に着目しても構いませんが、少し友也を取り上げてみましょう。



 シングルマザー遊佐ひろ子の息子・友也には、次のような特徴があります。
・小学校に上がる直前(5歳〜6歳)の子供。
・普段は幼稚園に行き、母親の会社から帰る母親を待って一緒に帰るという生活を送っています。
・何かというとすぐに泣いてしまうひ弱な子供。
・父親がいないせいか、安兵衛の毅然とした態度に却って親近感を持ってしまいます。
・ココゾというときは病身でも安兵衛を探しに行きます。

 こんなところで、少し前にDVDで見た映画『縞模様のパジャマの少年』(注4)に登場する少年ブルーノと比較するのはお門違いも甚だしいとは思いますが、彼については次のような印象を受けました。



・主人公の少年ブルーノは8歳(友也より少し大きいだけ)。
・強制収容所長に就いた父親の関係で、人里離れた収容所近くの邸宅に引っ越したため、友人はおらず、いつも一人で遊ぶしか仕方ありません(幼稚園で皆と遊ぶ友也とは、その点で環境が酷く異なります)。
・社会的なことに少しずつ関心を持ち出しますが、父親は自分の仕事のことにつき一切話をしようとしません(とてもできたものではないでしょうが)。
・元々は冒険物語が大好きなことから、家族に黙って裏庭から塀の外に抜け出し、森を通って、農場と思った建物(実は強制収容所)に近づきます。そこで、仲間のもとを離れているユダヤ人の子供シュムエルと有刺鉄線越しに友達となりますが、……。

 この二つの物語で描かれている子供について大きな違いを言えば、
・友也の方は父親的な存在を求めているのに対して、ブルーノにとって父親は、権威的ですごく煙たい存在でしょう。
・また、友也はまだ幼稚園生ということで社会的な関心はほとんどありませんが、ブルーノは次第に社会に対して目を開いていくようになります(といって、説明を大人に求めても、誰も何も説明してはくれません。それがのちに大きな悲劇をもたらすことになります)。

 でも、友也は、自分にとって安兵衛が大切な存在だとなれば、熱があるにもかかわらず彼が働くお店まで電車を使って探しに行くという一途なところがあり、また他方のブルーノも、友達のシュムエルの父親が行方不明になったとわかれば、一緒になって懸命に探そうします(それが大変なことになるとは何も考えずに)。

 こうやって比べていくと、それぞれの映画がどうして今頃になって制作されたのか、といった点にも興味がわき、欧米の事情やわが国の事情などにも目が向きますが、そんなことはトテモ手に余りますのでここらでひとまず打ち切りといたします(注5)。



(注4)イギリス・アメリカ合作の映画『縞模様のパジャマの少年』(2009年公開)については、渡まち子氏が、「真実に目をふさぐ偽りの平和は、やがて取り返しのつかない悲劇によって裁かれる。この映画の結末には思わず言葉を失った。主人公の少年二人はオーディションで選ばれた無名の新人だが、その匿名性が戦争の悲劇をより際立たせている」として65点を付けています。

(注5)欧米では、『ソウル・キッチン』を挙げるまでもなく、人種問題は絶えず人々の関心の的であり続けましたが、日本ではいかにも微温湯的な家族共同体的意識が現代でも横溢している、などといってみても今更めいて面白くありません。


(3)渡まち子氏は、「江戸から現代にやってきたお侍がお菓子作りに目覚めるというハートフル・コメディーには、現代人が忘れがちな“1本通った筋”がある」、「生活の描写にご都合主義のところはあるが、子育てと仕事の両立に奮闘するひろ子の生き方と、安兵衛が江戸から現代にやってくる不思議の理由が絶妙に重なる構成は上手い。テイストはあくまでもライト感覚。それでも物語はタイムスリップもの特有の楽しさにあふれていた」として60点を付けています。



★★★☆☆



白夜行

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 『白夜行』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)この映画は、冒頭で少年・亮司の父親が殺され、その殺害事件の犯人は誰なのかを巡る事件の真相が物語の展開の中で明らかにされるミステリー物といえるのでしょう。
 とはいえ、事件が起きた昭和55年から次第次第に年月が経過し、その間に様々な人の死が物語の中に入り込んでくるために、そんな昔の殺人事件のことよりも、むしろ、主人公の孤児・雪穂(堀北真希)の成長ぶりの方を専ら描き出そうとする映画なのかなと思ってしまいます(映画のラストのシーンは平成10年の出来事であり、全体として約20年ほどの時が流れます)。
 それも、雪穂は、遠縁の未亡人の家に養女に入り、お嬢様学校から大学に行き、ついには資産家の跡取り息子(姜暢雄)と結婚し、超高級ブッティックの開店に至るというのですから、よくある物語ではないかな、とも思えてしまいます。
 ただ、最初の事件に疑問を感じていた笹垣刑事(船越英一郎)だけがずっと関心を持ち続け、時折警察に入ってくる情報をつなぎ合わせ、その上で退職後になって、亮司(高良健吾)の母親から重大な情報を聞き出して、ついには事件の全容を明らかにするわけです(注1)。
 とはいえ、これではいくらなんでも話が間延びしてしまい、最後に笹垣刑事が事件の成り行きを懇切に説明しても、今一なるほどといった感じにはなりません。
 おまけに、事件に対する真犯人の関与の仕方に余り切実さが感じられず、そういうこともあるのかなといった程度の印象になってしまいます。

 と言っても、俳優陣が充実していますから、149分と随分の長尺ながら、退屈はしませんでした。
 まず、主役の堀北真希です。



 原作で描かれているイメージとは違うのなんだのと姦しく言われていますが、この映画だけを一つの作品として見た場合(言うまでもありませんが、映画は原作とは違う独立した作品と考えるべきでしょう)、大変よくやっているのではないかと思います。
 主人公の雪穂は、最初の事件との関連性を感じさせるものが彼女の中に窺えるようでは話がぶち壊しになってしまうところ、それでも完全に断ち切れてはいないという雰囲気を何かしら感じさせる必要もある、といった難役なのであり、これをこなせる若手俳優はそうはいないと思えるところ、堀北真希はよくやったと言えるのではないでしょうか。

 また、亮司役の高良健吾にも同じような雰囲気が求められるところ、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』で見せてくれたすぐれた演技力をこの作品でも見せてくれます。



 それに出色なのが、亮司の母親役の戸田恵子です。質屋を営む自分の夫が殺されて、警察官から質問されるときの風貌、しばらく間を置いてスナックのママとなって、客の笹垣刑事の相手をするときの容貌、さらには、事件から20年近く経って重大な情報を笹垣刑事に漏らす時の様子、といった3度の演技には観客を唸らせるものがありました。


(注1)こう見てくると、今回の作品は、松本清張の推理小説を原作とした映画『砂の器』に、雰囲気が酷く類似していると言えないでしょうか?なにしろ、その映画では、片や時代の寵児となっている売れっ子作曲家(加藤剛)がおり、もう一方に元巡査殺人事件の真犯人を執念深く追い詰める刑事(丹波哲朗)がいるのですから(これ以上類似点などを議論すると、今回作品のネタバレになりかねませんので、ここらでストップいたしましょう)!


(2)この映画で注目されるのは笹垣刑事でしょう。



 むろん、「2時間ドラマの帝王」といわれる船越英一郎が、準主役といった感じで映画全体を引っ張っていることもありますが(約20年という時間の経過をうまく演じていると思いました)、その描き方が原作(注2)とはいろいろな点で異なっているのです。そうしたところにあるいは本作品の特質もうかがえるのでは、とも思えるので、若干ですが覗いてみることといたしましょう(注3)。

 まず、映画の笹垣刑事は、白血病の息子が入院中にもかかわらず捜査から抜け出せずにいるうちに、とうとう子供を死なせてしまう、という設定になっていますが、小説ではそんな設定にはなっていません。
 おそらく、笹垣刑事のおよそ20年近くに渡る執念の根拠を観客に納得してもらうために、そうした設定が映画の冒頭近くで取り入れられたのではと考えられます。

 また、映画では殺人事件が起きると、県警本部の部長(キャリア組)が、所轄の警察署に乗り込んできて捜査本部が設けられ、その本部長に就きます(東京に戻るべく、ここでなんとか実績を上げようとします)。この場合、笹垣刑事は、所轄署の一介の刑事に過ぎません。
 他方小説では、笹垣刑事の方が本部の捜査一課に所属していて、所轄署に設けられた捜査班に加わる格好になっています。
 たぶん、『踊る大捜査線』などで見られるキャリア組とノンキャリア組との対立といったお馴染みの下世話な話題を持ち込んで、映画の物語をヨリ身近なレベルにしようと考えたからではないでしょうか。

 さらに、映画の場合ラストの場面では、笹垣刑事と真犯人が対峙することになりますが、小説ではソウはなりません。
 おそらくこの点が、映画と小説の一番大きな違いと言えるかも知れません。
 映画の場合、真犯人は自分の犯行であることを認めるわけですが、小説では、それまでの物語の展開から、問題の人間が真犯人だとみなせるものの、その人間は最後まで告白などはしません。もしかしたら、ソウではない可能性すら残っています。
 この点に関し、劇場用パンフレットにおいて、原作者の東野圭吾氏は次のように述べています。
 「私がこの小説で描きたかったのは、主人公たちの理屈では説明出来ない負の感情そのものです」が、「小説を読んだ人々は、どうしても理屈を求めます」。そして、「今回の映画では、主人公たちの感情にどんな?理屈?が付けられているか―それが最大の見所だと思います」。
 この映画を監督した深川栄洋氏ら制作側が考えた?理屈?(小説と違って随分と丁寧に貼られた様々の伏線から推測されます)が、こういったところにも窺えるのでしょう。

 総じて言えば、実に他愛ない結論で恐縮ながら、映画においてはそのエンターテイメント性の確保が随分と重視されている、と再確認したところです。
 無論、だからこの作品がダメだということではなく、映画と小説とはマッタク別物だとの立脚点から映画は映画として議論すべきだと、これまた再確認したところです。


(注2)『白夜行』の原作者・東野圭吾氏の作品を映画化したものは、これまで、青山真治氏が監督した『レイクサイド マーダーケース』(2004年)、あの沢尻エリカが出演している『手紙』(2006年)、福山雅治主演の『容疑者Xの献身』(2008年)、寺尾聰主演の『さまよう刃』(2009年)を映画館やDVDで見てきたところです。

(注3)映画全体としてみれば、他にも小説と異なる点を多数見出すことが出来ます。たとえば、清華女子学園時代、雪穂と江利子とが仲良くなったのは、映画の場合、いじめを受けていた江利子に雪穂が近づいたことによるわけですが、小説では、逆に江利子が雪穂に「友達になってくれない?」と話しかけ、雪穂が「あたしでよければ」と受け入れたことによっています。
 なにしろ、小説の方は、集英社文庫版で854ページもの大冊なのですから、違いが多いのは当たり前と言えば当たり前なのですが。
 (なお、小説が1999年に刊行されたことを反映して、殺人罪に係る「時効」が15年という点が数回取り上げられているところ、2011年公開の本作品では「時効」についての言及はなされていない、というのも興味深い点ではないかと思います)

(3)渡まち子氏は、「亮司は雪穂に操られた被害者なのか、それとも彼女の守護天使なのか。あるいは、雪穂の方が亮司の“作品”だったのか。さまざまな解釈を見るものに委ね、これから先も白い闇の中で生きねばならない者の哀しみを、余韻の中に漂わせた。ヒロインの堀北真希が高校生、大学生、さらに資産家に嫁いでブティック経営で成功する大人の女までを演じているのだが、顔色ひとつ変えずに、しかも自分の手を汚さずに犯罪を重ねる“悪女”を、静かな迫力で演じていて、新しい魅力を見せている」として65点をつけています。




★★★☆☆




象のロケット:白夜行

RED/レッド

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 大評判の『RED/レッド』を、遅ればせながら有楽町の丸の内ピカデリーで見てきました。
 見終わってから映画館を出ると、深夜に雪という天気予報にもかかわらず、すでに10時くらいで雪が相当降っているのには驚きました!
 気象庁は大型コンピュータを使って予測精度を上げているにもかかわらず、東京における降雪の予報はなかなか難しいようで、2月の連休の場合、事前の予報では大雪だったにもかかわらず実際にはそれほどではありませんでしたが、逆に14日の大雪は事前に予報されてはいませんでした。

(1)ところが、有能なCIAエージェントとなると、退職年齢に到達して年金生活に入っていても、よほど予知能力に長けているのでしょう、現役エージェントが組織した暗殺部隊による突然の襲撃に対しても、まるで待ち受けていたかの如くに十分対応できてしまうのです!
 そんな馬鹿なとは思わずに、そうだろうなと了解してしまえば、この映画の以降の展開を大層楽しく鑑賞できることでしょう。

 それにしても、この映画に登場するジジ・ババ(「RED(Retired Extremely Dangerous)」を結成!)、そしてそれを演じる俳優たちの元気なこと。
 ブルース・ウィルスは、『トラブル・イン・ハリウッド』で髭面を見せていましたが、この映画の中ではそれこそ縦横無尽に活躍しています。なにしろ、冒頭、オハイオ州の田舎で暗殺部隊の襲撃を撃退したと思ったら、もうすぐにミズーリ州のカンザスシティに出現したりするのですから。



 また、モーガン・フリーマンは、『インビクタス』でマンデラ・南ア大統領の役を重厚にこなしていると思ったら、この映画では、『最高の人生の見つけ方』(2008年)と同じように末期癌患者ながら、ニューオーリンズにある老人介護施設で女性介護士に色目を使っているのです。



 さらに、ジョン・マルコヴィッチは、『メッセージ』で、人の死ぬ時期が分かる不思議な感じの医師を演じていましたが、この作品でも狂気を内に秘めつつも変わったオーラをふりまいています。特に、沼地のすぐそばに作られた隠れ家は、自動車のボンネットを開けると入口になっていて、地下に通じる階段を下りて行くと、様々の武器が所狭しと並んでいます。

 最後に、女性エージェントのヴィクトリアを演じるヘレン・ミレンは、『終着駅』でトルストイの妻を素晴らしい演技力でこなしていましたが、この映画ではスナイパーとして活躍もし、またマシンガンを撃ちまくったりもします。




 こうであれば、定年に達したからといってなにも杓子定規に退職させ年金生活に追い込まずともと思いたくもなります。なにしろ、年金はどの国においても大変な財政負担となってしまっているのですから。
 また、彼らなら、特別なプログラムを作らずとも、これまで通りのやり方を続けてもらえば十分でしょう。
 ですが、世の中には、70過ぎともなると体のあちこちにガタが来て、とても若い時と同じようには働けなくなっているオヤジも多いことでしょう。
 この映画に問題点があるとしたら、老齢となったエージェントのあり方について、はかばかしい指針を何一つ示してはいないことではないでしょうか?
 高齢者には高齢者なりの長所(すぐれた判断力、経験の蓄積など)があるはずです。それを大きく引き伸ばす一方で、短所(体力がなくなっていること、視力・聴力・記憶力などの衰え)をカバーするやり方を組織は教育すべきではないでしょうか。
 とすると、若いエージェントに負けず劣らずに銃が扱えることを示すのもかまいませんが、その良さを発揮するモッと違った面を描き出しても面白いのでは、と思ったりしました。

(2)映画の冒頭では、年金生活を送る元スパイのブルース・ウィリスが、役所の年金課の女性職員(メアリー=ルイーズ・パーカー)と電話で話しているところ、これは、偶々最近NHKTVで見た『無縁社会』(2月11日放送)の放送内容ともつながるところがあるのではと思いました。

 なにしろ、それなりに立派な一軒家で一人で暮らす元スパイは、毎日することが何もないので、年金が入手できないといった苦情を申し立てるという口実をわざわざ作って(届いた年金小切手を破り捨てています)、その職員と何度も電話で話そうとしているのです。といって、それまでウィリスは、この職員の顔も見たことがありません。

 といっても、この日のTVの放送内容自体は、「「無縁」となる人たちは高齢者だけでなく、すさまじい勢いで低年齢化し、日本列島に無縁社会が広がっている」ことが強調されていて、それなりに衝撃的ですが、高齢者の「無縁」化はむしろその前からNHKで随分と取り上げられています(注)。
 たとえば、昨年4月3日に放映された『無縁社会―私たちはどう向き合うか』では、「今、自分は、一人でマンションの27階に住んでいます。ある程度、お金はあっても、人ごとではありません。本当に身につまされました」という70代の女性の声が紹介されました。
 また、東京・葛飾区の都営高砂団地では、「単身化が進み、およそ900世帯のうち、ひとりで暮らす人が、すでに30%にのぼってい」るとのこと。さらに同団地では、「元日をひとりで過ごす人も少なく」ないそうで、水野由紀夫さん(仮名・56歳)は、「おととし、体調を崩して、タクシーの運転手をやめ、派遣の仕事をしてい」たが、「その仕事も半年前に失い、今は、人と話をすることすら、なくなり」、「去年、胃けいれんで倒れ、救急車を呼んだ」とのこと。水野さんは、「孤独死の不安を、急に感じるようになったと言」っているそうです(昨年1月6日放送『シリーズ“無縁社会”ニッポン?「“単身化”時代」』)。

 現実はかくも非常に厳しいわけですが、それはともかく、この映画は、年金生活に入り無縁社会に生きていかねばと覚悟していたはずのブルース・ウィリスが、実は「無縁」でも何でもない、というところから物語が急展開するのです。


(注)昨年の11月に文藝春秋の方から単行本として『無縁社会』(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)が出版されています。
 なお、2月18日の新聞記事によれば、2月11日に放映された『無縁社会』は「過剰演出」ではないか、との批判が寄せられているとのこと。確かに、「ネット縁」を求めている若者を「無縁」と決めつけるわけにはいかないのかも知れません。
 この問題については、ブログ「映画のブログ」のナドレックさんからご教示いただいた上武大学教授・池田信夫氏のブログ記事が随分と参考になると思います。
 また、より詳細には、これもナドレックさんのご教示によりますが、大妻女子大学の石田光規氏の論考も興味深いと思います。
 さらに、原理的に考えるには、京都大学の佐伯啓思氏の連載論考『反・幸福論』(新潮社の雑誌『新潮45』に掲載中)が面白いかもしれません。その第4回の冒頭には、次のような記載があります。
 「戦後日本は、個人の自由や様々な束縛からの解放こそを進歩であり、文明だと考えてきました。特に「イエ」から逃れることは近代化、民主化の不可欠の前提だとみなされたのです。そうであれば、個人の自由をさまたげる束縛、つまり「縁」から自らを切り離すことを必死でやってきたわけで、その延長上に「無縁」状態が出現するのは当然のことなのです」。
 なるほど。日米で同じような状態となっているのは、日本が米欧を目指してきたことの必然的な結果というわけなのかも知れません。


(3)渡まち子氏は、「「若いモンには負けないゾ!」のオヤジ・パワー炸裂の快作だが、このテのジャンルの映画には無縁に思える英国女優ヘレン・ミレンをキャスティングしたことが功を奏して、洗練された雰囲気に仕上がった。過激でひねりの効いたこのスパイ映画、できれば次々に新メンバーを加えながらシリーズ化してほしいものである」として65点をつけています。



★★★☆☆





象のロケット:RED(レッド)

死なない子供、荒川修作

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 ドキュメンタリー映画『死なない子供、荒川修作』を吉祥寺バウスシアターで見てきました。

 この映画は、以前私が見学したことがある三鷹の「天命反転住宅」(2009年2月11日の記事で触れたところです)をデザインした荒川修作氏に関するドキュメンタリーです。
 当初、渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映されるとわかり、是非とも見に行こうと思ったものの、レイトショーのためなかなか時間が合わず、そのうちに終了になってしまったところ、このたび近くの吉祥寺バウスシアターで上映されると聞き及び、レイトショーながら出かけてきたわけです。

 本作品は、「天命反転住宅」を紹介しながら、その合間合間に、荒川修作氏の講演の模様を挟み込み、さらには以前彼が制作した前衛的な作品や、岐阜県に作られた「養老天命反転地」をも紹介しています(注1)。



 三鷹の「天命反転住宅」を紹介するにあたっては、私が利用した見学ツアーの様子だけでなく(同住宅には、ツアー専用のコースが設けられています)、宇宙物理学者の佐治晴夫氏が、住宅の細部について様々のコメントを述べたりします。



 ただ、荒川修作氏は科学的な思考を重視しており、佐治氏の説明にも興味深いものがありますが、ただあまり明晰にこの住宅について喋られると、なんだか荒川氏の姿勢とは齟齬するのではないか、その芸術的な側面が消えてしまうのではないか、とも思えてきますが。

 さらに、私が見学した際には見ることができなかったプライベートな居住空間の様子とか、そこに住んでいる人たちの意見なども、映画では紹介されています。
 特に、この住宅に居住する者は、皆、荒川氏との対決が迫られるようで、それぞれ自分なりの解釈で凌いでいたり、あるいはそういった有形無形の圧迫を受けるのを嫌がって退去する者も出てくるようです。
 実際のところ、メインの床が砂漠のように波打つ砂地模様であったり、部屋が球形であったり、どの部屋も扉がなくて中が丸見えだったりするのですから、そこで暮らし続ければ四六時中荒川氏の思考に触れていることになるでしょう!なぜ彼はこんな形の家を作ろうとしたのか、この部屋はどんな意味があるのかなどと考えることになってしまう一方で、この家で暮らす時間が蓄積されると、おのずと環境の影響を受けて、もしかしたら従来の思考方法から脱して新しい境地へと飛び移ったりしているかもしれません
 特に、この住宅で生まれて育ちつつある幼児の映像が何度も映し出されますが(あるいは、この映画を制作した監督の子供でしょうか)、成長したら彼女がどんな目覚ましいことをやり遂げたり言い出したりするのか、今から楽しみになります!



 また、こうした映像に挟み込まれる荒川氏の講演風景は非常に特異なもので、よく聞き取れないながら、目を剥くようなことを喋っているようなのです。



 すなわち、これまで人が言ってきたことはみんな間違っている、不可能だとされてきたことは可能なことなのだ、人は宿命を反転できるのだ、環境・雰囲気・考えはみんな借りものなのだ、現実は変えられるのだ、だから人は死ななくともいいのだ、西欧の哲学の言葉は嘘ばかりで全部間違っている(注2)、自分が言っていることは誰にも分からないだろう、等々。
 実際には、荒川氏は昨年5月に亡くなっており、その葬儀の模様がこの映画で映し出されています。ですから、その主張を文字通りに受け取れば、荒川氏の方が間違っていると言えるのかもしれません。ですが、彼によれば、言葉の意味するところが全然違うのですから、そうは簡単に言い切れないでしょう。
 少なくとも、不可能と思われたことを何でもいいからやってみること、それが死なないことの意味だと受け取れば、この「天命反転住宅」がこれから何事かをなすかもしれません。あるいは、この住宅で生まれた幼児が大きくなったら、「死なない子供」になるのかもしれません!

 加えて、岐阜県にある「養老天命反転地」の模様も紹介されているところ、その場面で取り上げられているのは、専ら子どもたちの遊ぶ姿です。次世代を担う子供たちの中にこそ「死なない子供」が見出されるというのでしょう。




 なお、荒川氏は、若い時にアメリカにわたり、著名なマルセル・デュシャンと出会ったり、またドイツでは物理学者ハイゼンベルクに賞賛されたりしています。その時の写真とか、また初期の頃の作品も映画の中で映し出されます。
 そうした酷く前衛的な作品は、よくわからないながらも、全体から受ける雰囲気から人の生と死とを取り扱っているようにも見えます。



 荒川氏は、終生「死」とその反対である「生」にこだわり続けたのでしょう。


(注1)2月9日の朝日新聞記事によれば、この作品の制作に当たった山岡信貴監督は、三鷹の「天命反転住宅」で暮らし子供も育てたそうで、住んだ感想を荒川氏に報告するために映画を撮り始めたとのことです。

(注2)たとえば、『三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために』(水声社、2008年)に掲載されている建築家・丸山洋志氏との対談において、荒川氏は次のように語っています。
 「たとえば過ぎ去った20世紀、100年の哲学(思想界)の動きをみても、すべての、身体と環境から起こるイベント(出来事)を「内在化する、いやさせるためのロジックを一生懸命つくりあげようとした。……しかしこの与えられた身体は、いや動きは、いつもバイオトポロジカルな位置にあり、完全にオープンなんですよ。外側に開かれてるんです。それなのに、17世紀以後、約300年、この「観察する」「知る」という行為が中心になって、内在化の方向へ進ませてしまった」(P.99)。
 あるいは、人の「死」とは、「内在化」された西欧のロジックに従った見方によるものであって、その考え方を逆転して人は「オープン」なのだとわかれば、人は「死なない」のだ、ということなのかもしれません。そして、人は外に向かって開かれていることを身を以て理解するためには、いくら机に向かって思索を凝らしてもダメで、「天命反転住宅」のようなところで生活しなければならないのでしょう!



★★★★☆


洋菓子店コアンドル

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 『洋菓子店コアンドル』を渋谷シネクイントスで見てきました。

(1)先だって『ちょんまげぷりん』のDVDを見たばかりで、またしても洋菓子を巡る映画とはゲップが出るかなとは思いましたが、このところ映画館で邦画をあまり見ていないこともあって、マアかまわないかと出かけてきたところです。
 ただ、平日の最終回でしたが、シネクイントは観客が10名足らずで、実に寂しい限りでした。

 さて、この映画では、『ちょんまげぷりん』と同じように映画の中で洋菓子が作られるところ、言うまでもありませんが、シチュエーションは両者でかなり違っています。
 まず、『ちょんまげぷりん』の方は、江戸時代の武士が現代にタイムスリップして、そこで身につけた洋菓子作りの腕前を、また戻った江戸時代で生かすというファンタジー物語ですが、こちらの『洋菓子店コアンドル』では、鹿児島出身の若い女性が、洋菓子店で働くうちに身につけた腕前にさらに磨きをかけるべくアメリカに赴くというストーリーです。
 ですから、前者では菓子作りの腕前はお遊び程度でも全くかまわないのに対して(江戸時代の人々は、洋菓子自体を知らなかったでしょうから。それでも、タイムスリップしてきた武士・木島安兵衛は、コンテストで優勝するのですが)、後者においては、登場人物は遥かに真剣に菓子作りに励みます。
 特に、『ちょんまげぷりん』では、木島安兵衛がレシピを見ながら作ったにすぎない洋菓子を、彼が居候しているともさかりえの家に来た主婦たちは、揃って美味しいと言って食べてしまうのに対して、この作品では、蒼井優(故郷では、父親の洋菓子店を手伝っていました)が自信を持って作ったものが、こんな菓子では売り物にならないから、早く田舎に帰った方がいいと戸田恵子に言われてしまうのです。
 それでも、生来の負けず嫌いの蒼井優は、なんとかパティスリー「コアンドル」の厨房に潜り込むことに成功して、次第に腕を上げていくのです。



 こう見てくると、『洋菓子店コアンドル』は、蒼井優の成長物語と考えることができるでしょう。

 ソウなると、主役の江口洋介はどうなってしまうのでしょうか?



 それがこの映画の問題点だと思えてきます。
 すなわち、クレジット・ロールの上からは、主役は江口洋介なのでしょうが、蒼井優の登場する時間の方がずっと長いように思えます。
 特に、映画では、蒼井優が菓子作りに懸命に努力しているポジティブな様子が何度も映し出されます。他方、江口洋介は、伝説のパティシエ、カリスマ・パティシエとはされていますが、娘を交通事故で失ったことから立ち直れずに、洋菓子店で菓子を作ることはせず、菓子評論家としてウジウジ生活をしているだけの存在、言ってみればネガティブな存在なのです。
 これでは、いくら主役とはいえ希薄な存在感しかなく、画面に出てこないはずです。

 それに、江口洋介は、娘を交通事故で失った際に妻と別れたはずですが、そのことが十分に映画では説明されません。妻の方だって、その影響は甚大なものがあったはずです。にもかかわらず、事故のあった当日、朝出かけるシーンが何度かフラッシュバックとして映し出されるだけで何も状況が明らかにされずに、ラストのシーンとなるのです。
 そのシーンでは、江口洋介がある人にケーキを届けます。これは、蒼井優がニューヨークに留学する際の条件として江口洋介に約束させたことですから、そんないい加減な場面ではないはずです(注1)。
 ですが、遠くから真横で映しているために、江口洋介が、持っているケーキの箱を手渡す人物が誰であるのか、察しの悪い観客にはよくわかりません(江口洋介は名前をインターホンで呼んでいるのですが、はて「マキ」とは誰だっけ?)。

 また、階段から落ちて骨折した戸田恵子は、入院当初様々な指示を出すのですが、結果的には何一つ守られてはいないようなのです。



 すなわち、ラストで晩餐会のシーンがあるところ、これはキャンセルの指示が戸田恵子から明確に出されたのではなかったかしら?
 たとえまだキャンセルされていなかったとしても、その準備に当たって相当の食材が必要と思えるにもかかわらず、厨房は、戸田恵子の指示で、すべて食材を処分した時のままなのではないかしら(注2)?

 後半は様々な場面でキツネにつままれたような感じを受けてしまいますが、まあこの作品は甘いスイーツを巡るお話なのですから甘く受け止め、深く詮索すべきではないのでしょう!

 実質的な主役の蒼井優については、これまでも『Flowers』とか『おとうと』、『百万円と苦虫女』、『フラガール』などを見、また最近も『変身』のDVDを見たばかりですが、なかなかこうととらえるのが難しい多面性を持った女優だな、との感を深くしました。

 江口洋介は、『パーマネント野ばら』で菅野美保の恋人の高校教師を演じていましたが、この映画でも評論家(実はカリスマ・パティシエ)の役であり、こうした知的な雰囲気の役柄に向いているのかもしれません。


(注1)江口洋介は、10年ほど前にパティシエを辞めたということになっていますが、そうだとすると辞める引き金になった事件がその頃に起き、妻と別れたのも同じ頃だと思われます。仮にそうだとすると、10年近くも別居状態が続いていることになり、常識的にはその間に離婚しているものと推測されます。
 ですが、江口洋介は、離婚しているのではと思われる女性の元にケーキを届けるのです。こんなことは余り考えられないのではないでしょうか? 
 また、蒼井優は、何のために江口洋介にそんなことをさせるのでしょうか(また元の鞘に収めようとして?それなら余計なことでは?)?

(注2)食材の粉の入った大きな袋を厨房から運び出すシーンが、映画の中では映し出されていました。


(2)映画の舞台となる洋菓子店(パティスリー)というと、車で井の頭通りを代々木上原から大原交差点の方を目指して進んでいった時に、左側に見える「ル・ポミエ」(Le Pommier:リンゴの木)がすぐに思い浮かびます(通りの向こう側には、北沢中学校があります)。
 シェフのフレデリック・マドレーヌ氏は、ノルマンディー出身、フランスの三ツ星レストランにてシェフパティシエを務めた経歴があり、この店は2005年にオープンし、2009年には麻布十番にも出店しています(奥様は日本人)。
 北沢店は、電車の駅からはやや離れてはいるものの、幹線道路の一つである井の頭通り沿いであり、また店の前には車が3〜4台くらい入れる駐車場があって、車で比較的アクセスし易いのがいいと思います。
 この店については、たとえば、ブログ「加納忠幸のワインを飲もうよ」や「スイーツの夢」は高い評価を与えていますが、ブログ「絶え間なき渇望」はそれほど高い評価を与えてはいません。

(3)渡まち子氏は、「物語はいつしか、すれ違った男女のラブストーリーではなく、ケーキ作りの修行に励む若い女性の奮闘記になっていく。そこに、ある事情から“人を幸せにするケーキ”が作れなくなった元天才パティシエの再生物語や、経営危機に追い込まれたコアンドルの起死回生の勝負がからむ」が、「この物語の欠点は、主人公のなつめにケーキ作りの才能があるのかどうかがはっきりしないことと、なつめと、コアンドルの店主や十村との絆を描ききれてない点だ」として50点を与えています。



★★★☆☆




象のロケット:洋菓子店コアンドル

冷たい熱帯魚

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 『冷たい熱帯魚』をテアトル新宿で見てきました。土曜日の午後だったせいでしょうが、ほとんど満席の状況でした。

(1)この映画を製作した園子温監督の作品としては、最近では、『愛のむきだし』と『ちゃんと伝える』を見ています。前者は、オーム真理教事件を題材の一つにしていますし、後者では父親とその息子が同時にガンを患うという設定が設けられています。両者ともそれなりにかなり厳しい状況が描かれているとはいえ、本作品の内容はそれらをはるかに凌駕しているでしょう。
 特に、本作品は、実際に起きた誠に陰惨な事件(「埼玉愛犬家連続殺人事件」)に基づいているのですからなおさらです。
 といっても、映画はその事件をなぞろうというのでは全然なく、当該事件をヒントにしつつも、あくまでそれだけで独立した一個の作品を形成しているといえるでしょう。
 ですから、実際の事件では、首謀者夫婦は逮捕され裁判で死刑判決を受けているとか(確定)、その妻は映画の愛子ほど若くはない、共犯の男は、この映画の主人公とは違って3年の実刑を科されたものの、出所後に事件のことを書いた著書を出版している(注1)、などと論ってみても何も始まりません。

 では何が描かれているのでしょうか?
 この作品で主に描かれているのは、崩壊しかかっている家族ではないかと思います。
 外見上一番家族らしい形態がとれているのは、主人公・社本(吹越満)の家庭。なにしろ、両親と娘が揃っているのですから。



 とはいえ、社本の現在の妻は後妻(神楽坂恵)で、娘(梶原ひかり)はこの継母を酷く嫌っているばかりか、母親の死後すぐにそんな女と結婚した父親をも大層憎んでいます。
 ですから、殺人鬼の村田(でんでん)が、娘に自分の店(大規模な熱帯魚店)で働くように勧めると娘は喜んでそれを受け入れてしまいますし、後妻の方も、娘から嫌われていることに加えて、社本が営む熱帯魚店が酷くシャビイなこともあり、結婚したことをいたく後悔しています(後妻は、家事をやる気などすっかりなくしていて、3人が揃う夕食に出されるものは、すべて冷凍食品を解凍したものばかり)。
 このように、社本の家はいつ壊れてもおかしくないわけですが、にもかかわらず社本は、何とかそれを維持し立て直そうと必死になります。
 たとえば、いとも簡単に人を殺害してしまう村田の行動を見たら、常識的には、人はすぐさま警察に飛び込んで告発しようとするでしょう(少なくとも、その場からなんとか逃げようとするでしょう)。しかしながら、社本にあっては、そんなことをしたら妻や娘の命はないぞと村田に脅されると、家を守ろうとするあまり見て見ぬふりをし、あろうことか次第次第に共犯者的な関係に陥ってしまうのです。
 こうした社本の思いつめた努力は、物語の進展の中で報われるのでしょうか、それがこの映画の見所の一つだと思います。

 社本以外の登場人物の家族も皆うまくいっていないようです。
 いうまでもなく、殺人鬼・村田とその妻・愛子(黒沢あすか)との関係は、一見すると緊密なようですが、内実は酷くおぞましいものですし、渡辺哲が演じる顧問弁護士(大きな家に一人で暮らしているのでしょうか)の存在が胡散臭くなってくると、愛子の肉体を罠に使って彼を死に至らしめたり、また社本の妻と肉体関係を持ったりもします。

 また、村田に毒の入ったドリンクを飲まされて殺される熱帯魚愛好家(諏訪太朗)も、行方不明になると登場してくるのが、その弟と称する男で、仲間のチンピラを率いて村田の会社に現れます。ですが、顧問弁護士から一喝されると、いともあっさりと引き下がる始末。行方不明の親族を探そうとする必死さは微塵もありません。



 こんなところから、劇場用パンフレットのインタビューで監督は、「今回は“徹底的に救われない家族”を描いてみました」と述べていますが、そんな言い分を素直に信じ込んでしまいたくもなってきます。

 ですが、「冷たい熱帯魚」というように、矛盾する言葉を一つのタイトルの中にわざわざ押し込んでいることをも踏まえると、あまり監督の言葉を額面通り受け取る必要はないかもしれません。
 ここからは完全ネタバレになってしまいますが、ある意味で社本は、最後に自分の思いを成し遂げて死んだのではないでしょうか?なによりも、自分を下僕のようにこき使いクソミソに貶した村田を世の中から排除するのに成功し、あまつさえ、死体を愛子に処理させるということまでやり遂げたのです(愛子は、そのために精神的に変調を来してしまいます)。
 さらに、社本は、自分もとから逃れようとした妻を殺した上で自殺することによって、最小単位ながらもその家を維持し得たのではないでしょうか?
 さらに社本は、自分が自殺することで完全に独り立ちできることになる娘には喜んでもらえ、自分を評価してくれると思ったようですが、それはいくらなんでも無理でした。
 なにはともあれ、ラストシーンでの社本は、目的を達成した後の実に穏やかな死に顔をしているのです!

 仮に以上のように見ることが出来るのであれば、本作品は、身の毛もよだつ事件のために危機に瀕した家族の繋がりを、死を賭して守ろうと頑張った男の物語だとも言えるのではないでしょうか?

 こんな社本を演じるのは吹越満です。『ヘブンズ・ストーリー』で主人公の少女・サト(寉岡萌希)の父親役を演じていましたが、それほど目立つ役柄ではありませんでした。ですが本作品では、狂言回し的な役割を果たしつつ、物語の進行と共に次第に存在感を増し、ラストでは大層重要な働きをしており、この人ならではの良さを遺憾なく発揮していると思いました。

 そして、殺人鬼・村田を演じているのが「でんでん」。
 映画『悪人』のラストの方で、深津絵里に「出会い系サイトで知り合って殺しちゃうなんて悪い奴だ」と話すタクシー運転手役を演じていましたが、この映画ではその持てる力を100%以上発揮させています。とにかく、人のいい熱帯魚店のおやじさんという面と、自分に少しでも逆らう者をいとも簡単に殺してしまう殺人鬼の面とを併せ持った役柄を、大変な説得力を持って演じているのには驚きました。「悪人」というタイトルを付けるとしたら、むしろこういう男を描く映画こそふさわしいのかもしれません。



 女優では、村田の妻・愛子を演じる黒沢あすかが、体当たりの演技を見せています。なにしろ、村田と一緒になって殺人を犯したり、その死体をバラバラにする役なのですから、さぞかし大変だったのではと思います(なお、彼女については、なんといっても塚本晋也監督の『六月の蛇』〔2003年〕での演技が印象的でした)。




(2)映画は、見る者に様々なことを考えさせる大変優れた作品と思いますが、それだけでなくこの映画には、140分を越える長尺にもかかわらずクマネズミを退屈させない点が備わっています。
 すなわち、希代の悪魔・村田が経営する熱帯魚店の名前が「Amazon Gold」だったり(注2)、アマゾン流域で獲れる世界最大の淡水魚「ピラルク(Pirarucu)」がその店の水槽の中で泳いでいたりするので、ブラジルで生活した経験があるクマネズミは、それだけでこの作品には釘付けになってしまいました(注3)。
 さらに加えて、アマゾン川には、血の臭いに接すると凶暴性を増すとされる肉食性の淡水魚「ピラニア(piranha)」が生息することからも(注4)、この映画とブラジルとの関連性を考えないわけにはいきません。本作品で流される血の量はただ事ではありませんから!
 さらに、関連性を探れば、村田の山中の隠れ家の屋根には、大きな十字架やキリスト像が置かれていますが、これはリオデジャネイロのコルコバードの丘にある巨大なキリスト像を思い起こさせますし、あちこちに転がっているマリア像も、ブラジルのマリア信仰に連想を誘います。
 なにより、クマネズミの滞在中には、日本で保険金殺人(少なくとも3人を殺害)を引き起こした犯人が逃亡してきて、アマゾン奥地で銃撃戦の末に射殺されてしまうという事件がありました(1979年)!

(3)この映画を見た後に、別の関心からフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』(1992年)のDVDを見てましたら、本作品と通じる点がいくつもあるのではと思えてきました。
 別というのは、世界的な日本人デザイナーの石岡瑛子氏(71歳)についてのNHKTVの番組(注5)を見て、世の中にはすごい女性がいるものだなと驚き、それならアカデミー賞の衣装デザイン賞を受賞しているこの作品を見てみようと思ったからです(注6)。



 さて、どこらあたりが本作品が『ドラキュラ』と関連性を持っているのかというと、たとえば、
イ)どちらも大量の血が関係します。
 一方の『ドラキュラ』には、いうまでもありませんが、吸血鬼が登場します。それほど外に流れ出ないとはいえ、人間の体から吸い取られる血の量は大変なものです。
 他方、本作品の場合、解体作業が行われる浴室で飛び散る血の量はただ事ではありません。なお、あれだけ夥しい血を完全に洗い流すことなど不可能で、そうであれば海老蔵殴打事件ではありませんが、血痕のDNA鑑定によって行方不明者がそこにいたことの証拠を見つけ出すことができるのでは、そうなれば警察はもっと早い段階で事件をストップさせることができたのでは、などと余計なことを思ったりしてしまいました(注7)。

ロ)両者の隠れ家は、いずれも随分と人里離れた山の中に設けられています。本作品の場合、死体の解体作業を行う古ぼけた小屋に行くために、村田たちは車で随分山を登っています。だからこそ、長年にわたって秘密に出来たのでしょう。
 一方、『ドラキュラ』においても、ルーマニアのトランシルヴァニア地方にあるドラキュラ伯爵の城は、都市から随分離れたところにある峻厳な山の上に設けられています。そこに行くためには、やっと馬車が1台通れるくらいの細い道しかありません。

ハ)本作品における隠れ家の外観を見ると、十字架に架けられたキリストの像とかマリアの像とかが屋根などに取り付けられていますが、随分と壊れています。
 これは、ドラキュラ伯爵の城と似たような状況にあると言えるでしょう。なにしろ、ドラキュラ伯爵は、神を信じられなくなってしまったのですから、まともな聖像が置かれているはずがありません。たとえば、城の入口におかれている十字架には、動物の顔面した悪魔が架けられています(注8)。

ニ)吸血鬼を完全に殺すためには、心臓に楔を打ち込み首を刎ねる必要があり、それが『ドラキュラ』でも描かれていますが、これは、本作品において、顧問弁護士の生首を村田が社本に差し出すシーンや、社本が村田のボディを何度も執拗に突き刺す場面と通じるところがあるでしょう。

ホ)映画『ドラキュラ』では、全体としては吸血鬼を巡る物語ながら、ドラキュラ伯爵の妻エリザベートに対する強い愛が強調されているところ、本作品においても、殺人鬼・村田の突拍子もない行動が全編を覆い尽くしてはいるものの、やはり社本の家族愛が中心的に描き出されていると言ってもいいのではないでしょうか。

(4)渡まち子氏は、「衝撃的な内容は、見る人を選ぶだろう。ただ、人間の中に確かにある、ダークな側面を、エロスとタナトス全開でたたきつけるこの映画、抗し難いどす黒い魅力がある。勇気があれば、悪意の極北とそのなれの果てを覗いてほしい」として70点をつけています。




(注1)実際に殺人事件にかかわって有罪となって服役した男が書いた書物が、文庫版となっています(角川文庫『愛犬家連続殺人』〔志麻永幸、2000年〕)。

(注2)アマゾン川流域では、大勢の人(ガリンペイロといいます)が群がって金の採掘を行っていることによっているのでしょう(なお、映画PR用なのでしょう、この店のHPまで作成されています!)。

(注3)ただ映画で、村田が1000万円もの投資価値があると誇大に言っている「アジアアロワナ」は、おもに東南アジア産のようです(たとえば、このサイトのものは、100万円もします!)。

(注4)大昔になりますが、TVで放映された米国映画『ピラニア』(1987年公開)を見た記憶がありますが、いくらなんでも酷すぎる描き方で、実際にはむしろ臆病な性格を持つ魚のようです(また、「ピラニア軍団」も一時ありました)。

(注5)「プロフェッショナル/仕事の流儀」の第156回「時代を超えろ、革命を起こせ デザイナー・石岡瑛子」(2月14日放映)。
また、このサイトでも、石岡瑛子氏のことが簡単に紹介されています。

(注6)映画『ドラキュラ』の衣装については、記事を改めて述べてみたいと思います。

(注7)骨は焼却炉で完全に灰にしてしまうと、DNA鑑定が難しくなってしまうそうですが、できないわけではないとの情報もあります。仮にそうであれば、村田は、映画の中で「ボディを透明にす」れば警察も手が出さないというようなことを言っていますが、あるいはこれは埼玉愛犬家連続殺人事件当時(1993年)の事情に基づいた台詞なのかもしれません。

(注8)園子温監督の『愛のむき出し』では、巨大な十字架を西島隆弘らが担いで歩いている場面が映し出されています。




★★★★☆





象のロケット:冷たい熱帯魚

再会の食卓

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 『再会の食卓』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)映画は、1949年に国民党軍が共産党軍に追われて台湾に渡った際に、上海で生き別れになってしまった妻と夫が、ほぼ40年ぶりに再会するという筋立てです。
 むろん、妻(玉娥)も夫(燕生)も、それぞれの場所で家庭を持ち生活を営んできました。玉娥は、上海で現在の夫(陸善民)との間に2人の子供をもうけ(長男は燕生との間の子供)、孫までいます。
 他方、燕生も台湾で家庭を持っていましたが、妻に先立たれてしまっています。それで、上海にやってきた燕生は、最初の妻である玉娥を台湾に連れて帰りたいと言い出します。
 玉娥は、その申し出を受け入れ、陸善民もそれでかまわないとしますが、子どもたちの意見を聞いてみようということになります。当然のことながら、子どもたちは大反対です。
 さあこの結末はどうなるのでしょうか、……。

 この映画は、邦題にもあるように食事風景がかなり重要な意味を持っていて、何かというと、孫まで入った3世代の大人数による食事となるのです。
 遠路はるばるやってきた燕生を歓迎する食卓は、玉娥たちの自宅ではなく会館に設けられ、地区の主任も顔を出し、燕生の上海帰郷が党公認であることが示されます。



 また、玉娥と燕生と陸善民の3人が囲む食卓は、何度か映し出されますが、そこで重要な話が取り交わされます。

 さらに、陸善民が燕生に振る舞った料理店での食事の際には、酔った陸善民が、それまで口にできなかったことを喋ってしまいます。

 最後の送別会は、途中で降雨に見舞われ中断してしまいますが、路地に食卓を出して行われ、周囲と溶け合って大層親密な雰囲気を醸しだしています。




 こうした食事風景は、ラストの陸善民のマンションでの食事風景と鋭く対比されます。
 というのも、陸善民らが長年暮らしてきた地区は、再開発のために取り壊され、彼らは新しく建設された立派なマンションに引き移ったのですが、家は広くなったものの、子どもたちは誰も寄りつこうとしないのです。
 ラストでは、陸善民の誕生祝いということでたくさんの料理を用意したのですが、子どもたちは用事があると言って顔を出そうとしません。ただ一人孫娘が付き合うものの、アメリカにしばらく滞在することになったという連絡が結婚相手から入り、この孫娘もそう時を置かずに離れていくことでしょう。

 陸善民の家も、燕生がやってきたりして、昔の共同体的な雰囲気を取り戻したかのように見えましたが、それは最後のあだ花であったようで、すぐさま歴史の荒波が押し寄せてきて陸善民たちはそこにはいられなくなります。
 なにしろ、上海は中国の資本主義化・近代化の最先端といえる地域であり、背景に並び立つビル群はニューヨークの摩天楼を思いつかせます。
 外国人からすれば、古い地区の方が良き中国を表しているのだから残しておけばと思ってしまいますが、中国自身からすれば、先進国にあるような建物の方が効率的なのでしょう(そんなものは、外国人からすれば、どこにでも見受けられるつまらない建物に過ぎないにもかかわらず)!

 問題点がないわけではないでしょう。
 先ずつまらない点ですが、台湾生活が長くなってしまったため、当初燕生は、「上海語が全く分からなくなってしまった」と言うものの、映画全体としては、玉娥らとのコミュニケーションに何ら問題がないように見えます。皆が共通語(北京語?)を使っているからなのでしょうか?あるいは、話している内に次第次第に上海語を思い出してきたというのでしょうか?

 さて、燕生は、「台湾老兵帰郷団」の一員として台湾から上海にやってくるのですが、仮に台湾で結婚した妻が生きていたら、はたして中国本土、それも玉娥のもとに行ってみようという気が起きたでしょうか?
 勿論、最初の妻のことをズッと忘れず愛し続けていて、台湾では生活等のために余儀なく結婚したのであって、中国本土との交流が求められる状況になるやいなや飛んでやってきた、という事情なのかも知れません。
 ですが、40年という長い年月の重みはそんなものでしょうか?台湾で築き上げた自分の家族との関係を、そんなに簡単に無視できるのでしょうか?
 むしろ、玉娥の長女が言うように、台湾の妻に先立たれて寂しくなったから、あるいは老後の自分を世話してくれる人が必要だから、昔のことを思い出したに過ぎないのでは、と意地悪く考えてみたくもなります。
 (モット言えば、玉娥を連れて帰る代わりにお金を置いて行こうと言いますが、極言すれば、これでは玉娥を買いに来たように受け取られても仕方がないのではないでしょうか)



 また、玉娥は、当時燕生のことを心底愛していたのかもしれませんが、そして無理やり二人は引き裂かれてしまったわけですが、一緒に暮らしていた1年間がいくら思い出深いと言っても、さらにその後の40年の長い生活が辛かったと言っても、燕生に台湾に一緒に来ないかと言われてすぐさま「はい」と返事してしまうのは、あまり説得力がないのではと思ってしまいます。何しろ、その40年余りの間に、長男を育て、二人の子供をもうけ、孫娘までいるのですから、まるでそうした生活に愛着がないような返答ぶりに、かえってこちらが驚いてしまいます(これまで玉娥と燕生との間で手紙にやりとりが頻繁にあり、二人の気持ちが高まっていた、ということでもなさそうです)。

 さらに、陸善民ですが、いくら優しい心根の人といっても、40年も連れ添った妻をいとも簡単に燕生に差し出そうとするのは、玉娥のことを第一に考えての行動だとしても、常識的ではないと思われます。

 もしかしたら、玉娥が燕生の申し出にすぐさま「はい」と言ってしまうのは、陸善民の本当の気持ちを確かめようとしてのことからだ、というようにも考えられるところです。玉娥自身としては、この40年間の生活に強い愛着を抱いているものの、今の夫も果たして自分と同じように考えているのかどうか、今一確証が持てなかったのかも知れません。陸善民は、その外見からすると酷く優しそうな印象を与えるものの、心の奥底を素直に表に出すタイプではないように見えますから。

 そう考えてくると、陸善民が燕生の申し出に積極的に同意してしまうのも、逆に、玉娥の今の気持ちを確かめようとしてのことだったとはいえないでしょうか?陸善民としては、戦乱の混乱の中で困り抜いている玉娥の有様につけ込んで結婚させた、という後ろめたさから何時までも逃れ切れていなかったとも思えますから。

 様々な問題を抱え込んでいる映画とはいえ、結局のところ、人々が家庭を持ったり離別したりと様々な動きを見せても(より具体的には、玉娥が台湾に行こうが行くまいが)、ラストの物寂しい食卓の光景に行き着くのであれば、大きな時の流れの中ではどのように転んでもあまり変わりがないように思え、結局のところ、上で挙げた様々な問題点などどうでもよくなります。

 加えて、演じている俳優たちの演技は素晴らしいものがあると思います。
 玉娥を演じるリサ・ルーは、80歳近い高齢(劇場要パンフレットによれば83歳)とは思えないほど綺麗で気品のある顔立ちをしており、燕生と陸善民との間に挟まって悩む姿を、口には殆ど出さない大層押し殺した演技で演じています。
 また、燕生は、昔はやらなかった料理の腕前を披露したり、得意の歌を聞かせたり、ついには玉娥を台湾に連れて帰りたいと陸善民に頼みこんだりと、様々な側面を見せる大変難しい役柄ですが、それを見事に演じるリン・フォンには脱帽です。
 さらに、陸善民は、心の底では玉娥を大層愛していながらも、燕生が玉娥を台湾に連れて帰りたいと頼むと、待ってましたとばかり同意してしまうという、これまた難しい役ですが、シュー・ツァイゲンはうまく演じ切ったと思います。

 総じて言えば、まずまずの作品と言えるのではないでしょうか。

(2)この映画の年代設定は、映画の中で言われていることからすると、先に見た『モンガに散る』とほぼ同時期ではないかと考えられます。
 すなわち、1987年に台湾の戒厳令が解除され、台湾と大陸との交流が大幅に可能になりましたが、『モンガに散る』の後半で設定される年代は、まさにその1987年であり、展開される物語も、台湾への大陸極道の進出を巡ってのものとなっています。
 他方、本作品は、逆に、台湾から思いがけない人が中国本土にやってくることを巡る物語であり、さらに燕生が自分の真情を玉娥に伝えようとするのであれば、「台湾老兵帰郷団」が許可されてからそれほど間を置かない時期と考えるのが常識的ではないかと考えられます。
 とすると、設定されている年代は、せいぜい1990年代初期の頃ではないかと推測されます。
 しかしながら、燕生がリニアモーターカー(2002年末に開通)に乗る場面があり、わざわざ最高速度が時速443kmなどといった説明がなされ、また、燕生が超高層ビル(「上海環球金融中心」でしょうか)の展望台から周囲の光景を望遠鏡で見る場面では、そのビル(2008年完成)について「台北101」(2004年完成)よりも高いとの説明があったりすると、この映画の年代は現時点そのものなのではと思えてきます。
 映画の中で、物語の舞台は離別してから40年後と言われているのですから、こうした描き方に酷く奇異な感じを受けるものの、マア1990年代から2000年代というようにある程度の幅を持った「今」なのだと大雑把に考えればいいのでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「ひとつ言えることは、登場人物たちが食卓を囲むことによって分かり合おうとする、独特の礼節文化が、ストーリーを魅力的にしているということ。イェンションとユィアー、シャンミンの3人で囲む食卓は、美味しい料理と酒で満たされて、ユィアーに決断を促すことに。監督のワン・チュエンアンは名作「トゥヤーの結婚」でも、進退窮まった夫婦の運命を描いて大きな感動を呼んだが、本作では中国の歴史の光と影を背景に、新たな家族の物語を誕生させた。古い家の食卓から未来を見つめる人間ドラマの秀作である」として70点をつけています。




★★★☆☆




象のロケット:再会の食卓

ヒア アフター

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 『ヒア アフター』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)本作品を監督したクリント・イーストウッド監督の映画は、最近では『インビクタス』や、『チェンジリング』、『グラン・トリノ』を見ているので、この映画も頗る楽しみでした。
 本作品は死を巡るものといえますが、これまでのイーストウッド監督の作品も、むろん決して死を扱っていないわけではありません。『チェンジリング』は、幼児の大量誘拐殺人事件が関係していますし、『グラン・トリノ』でも、イーストウッド監督が演じるウォルトは銃弾を浴びて死んでしまいます。ですが、本作品のように死それ自体を真正面から取り上げている作品は、見当たらないのではと思います。

 映画は、3つの都市で展開される死を巡る3つの物語で構成されているところ、ラスト近くになってから、それまで独立して展開されていたそれらの物語が微妙に絡まってきて、ラストのハッピーエンドにたどり着くというわけです。
 ただ、これらの3つの物語は、同じく死を巡ると言っても次元が異なっています。
 第1の物語では、パリの超売れっ子TVキャスターのセシル・ドゥ・フランスが、東南アジアのリゾート地で大津波に出遭って、あやうく死にそうになります。この物語では、彼女自身が死後の世界を体験することになります。



 第2の物語では、サンフランシスコに住む霊能者のマット・デイモンの悲哀が描かれています。その能力を使うと、却って人が彼から離れていくのです。この物語では、死後の世界とのコミュニケーションが描かれています。



 そして、第3の世界では、ロンドンの双子の兄弟の兄が交通事故で死亡し、残された弟がなんとか兄と接触したいと強く望みます。この物語では、直接霊魂は関係してきません。



 このように、それぞれの物語は次元が微妙に異なっているため、そのままでは絡み合わないところ、セシル・ドゥ・フランスがパリに戻った後に著した著書(題名が『HereAfter』)が評判を呼び、ロンドンで開催されたブック・フェアで朗読したことから、3人が絡み合ってきます。
 ここらあたりはご都合主義的な感じがしないわけではありませんが(注1)、実にうまく物語が展開していって、ラストに至って観客を幸福な感じにさせてしまいます。さすがはクリント・イーストウッドというべきでしょう(注2)。

 ところで、死を巡る映画というと、なんといっても『おくりびと』(2008年)が思い出されますが、同作品はあくまでも納棺という儀式にかかわるものでした。また、死後の世界を描いた映画ならいくつか見つかることでしょう。たとえば、『丹波哲朗の大霊界』(1989年)はどうでしょうか(なお、最近見た『きみがくれた未来』は、交通事故で死んだ弟と生き残った兄とのお話で、弟の幽霊が登場するものの、あくまでもこちら側の世界の話です)。

 今回のイーストウッド監督の作品は、むしろ生と死の境目を巡って物語を作り上げたものといえるでしょう。死後の世界はどんなものなのかについて人は非常に興味を持っているところ、まともに取り扱えば際物的な映画になりかねないことを踏まえて、ギリギリのところで踏みとどまった感じです。
 霊能者であるマット・デイモンが、依頼者の手を握って、彼岸の世界に踏み込みますが、バンと音がして一瞬間その世界が映像で描き出されるものの、そしてマット・デイモンは暫く死者の話を聞いたり話しかけたりしますが、死者の様子はそれ以上映像化されません。
 津波に遭遇して溺死するところだったセシル・ドゥ・フランスも、息を吹き返す前、ホンの一瞬間だけ死後の世界を覗き見たような映像(いわゆる「臨死体験」というものでしょう)が映し出されます。

 この映画で描かれる死後の世界は、どんな構造をしているのでしょうか?もちろん、明示的に映像化されているわけではなく実に短い時間しか見ることが出来ませんから、単なる推測にすぎません。
 ただ、双子の兄弟の兄は、交通事故に遭ってからは、まだ死後の世界の入口にいるようです。暫くマット・デイモンと話をした後、別のところへ行くと言って消えてしまいますから。力のある霊能者といえども、最早コミュニケーションが取れない奥の世界があるというのでしょう。
 そして、まだ入口にいる場合には、霊能者と交信できるばかりか、生前の世界に対しても一定程度の働きかけが可能なようです(注3)。
 とはいえ、マット・デイモンが料理教室で知り合った女性の場合、彼は、まず母親の霊と話しますが、暫くすると父親の霊とも話すようになります。父親が亡くなったのはかなり以前のことでしょう。とすると、霊能者が交信できる霊魂は、いったいどのくらいの間、死後の世界の入口近くにさまよっていられるのでしょうか(注4)?
 それに、マット・デイモンが依頼者の手を握って死後の世界と接触すると、依頼者に関係する霊魂が直ちにマット・デイモンに現れることからすると、彼らは、こちら側にいる人たちそれぞれの背後近くに常時存在しているとも考えられるところです(背後霊!)。

 さて、この映画でも、俳優陣は、それぞれがなかなかいい味を出していると思います。
 マット・デイモンは、他の俳優だったら胡散臭さを感じさせてしまう霊能者の役ながら、誠実な人柄が全体に滲み出ていて、観客に違和感をマッタク感じさせません。『インビクタス』の際のもその瑞々しい演技に目を瞠りましたが、今回もはまり役と言えそうです。
 また、セシル・ドゥ・フランスは、これまで見たことはありませんが、売れっ子ニュースキャスターならば斯くあり何なんという感じで、生き生きと演じています。ベルギー出身とのことで、おそらく何カ国語も出来る国際俳優なのでしょう。

(2)この映画のセシル・ドゥ・フランスを巡る話は、いわゆる「臨死体験」に関するものと思われます。
 例えば、評論家・立花隆氏の『臨死体験』(文春文庫)の「上」の冒頭では、臨死体験とは、「事故や病気などで死にかかった人が、九死に一生を得て意識を回復したときに語る、不思議なイメージ体験」とされています。
 引き続いて、それらには、「三途の川を見た、お花畑の中を歩いた、魂が肉体から抜け出した、死んだ人に出会ったといった、一連の共通したパターンがある」とも記載されています(注5)。
 さらに、「その意味付けと解釈を巡って、さまざまの議論がある」とし、次のような二つの対立する見方があると述べられています。
イ)「臨死体験は魂の存在とその死後存続を証明するもの」(注6)。
ロ)「臨死体験というのは、生の最終段階において弱り切った脳の中で起こる特異な幻覚にすぎない」(注7)。

 立花隆氏は、同著「下」の末尾の方で、「私も基本的には脳内現象説(上記のロ)が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら現実体験説(上記のイ)が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる」(P.474)としつつも、「ただ、実を言うと、私自身としては、どちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている」と言っています。
 なぜなら、「死にゆくプロセスというのは、これま考えていたより、はるかに楽な気持ちで通過できるプロセスらしいということがわかってきたから」、「そして、そのプロセスを通過した先がどうなっているか。現実体験説のいうようにその先に素晴らしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説の言うように、その先がいっさい無に成り、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている」と続けています。

 もしかしたら、イーストウッド監督がこの映画で問題提起しているようなことは、実は余り問題にならないのかも知れません。
 なおかつ、このブログの前の記事で取り上げた荒川修作氏が言うように、「天命を反転」して「死なない子供」になるのなら(注8)!

(3)渡まち子氏は、「生と死を明確に分離するのではなく、私たちの周辺に当然あるものとしての死を、肯定的に受け入れる。そのことをスピリチュアルな体験を通して描くスタイルは、リアルな人間ドラマを得意とするイーストウッドの新しい挑戦なのだ。1930年生まれの老巨匠は、映画に対して果敢なチャレンジ精神を決して忘れない」として65点をつけています。
 前田有一氏も、「それにしてもクリント・イーストウッド監督はすごい。丹波哲郎も仰天の「死んだらこうなった」を描きながら、これだけ良質な、まともな大人が真剣にみられるドラマに仕立てるのだから」などとして70点をつけています。
 また、映画評論家・秋山登氏は、2月25日の朝日新聞夕刊で、「イーストウッド演出はまことにリアルだ。……それでいて、語り口は、律儀で、抑制が利いていて、品がある。80歳の大家の風格がおのずとにじみ出ている。/ただし、知的な遊びではなく、正面から死後を見すえようという心意気は買うけれど、……底の浅さは隠せない」などと述べています。



(注1)一介の工場労働者にすぎないマット・デイモンが、チャールズ・ディケンズの熱烈な愛好者で、ロンドンのバス・ツアーに乗り込んでディケンズの家(博物館)を訪ねたり、ブック・フェアで開催された『リトル・ドリット』の朗読会に参加したりするなどは、あまり常識的ではない感じがしますし、セシル・ドゥ・フランスは、その著書の評判がいいからと言って、同じようにブック・フェアですぐに朗読会を持てるのかなと思います。さらに、双子の兄弟の弟の方は、それほど本好きのようにはみえないにもかかわらず、ブック・フェアの会場をよくわかったように歩きまわります。
 むろん大した疑問点ではありませんから、それほど気にならずに映画を見終わることは出来ますが。

(注2)とはいえ、実のところ、マット・デイモンは、霊能力者であるゆえに直前に恋人を失ったばかりですし、またセシル・ドゥ・フランスも、研究所の研究員から資料を沢山渡されるものの、特別な分析能力を持っているわけではないのですから、今後どうやって「死後の世界」と付き合っていくのか甚だ心許ない感じがします。さらに双子の兄弟の弟の方も、薬物依存症の母親を抱えて大変な生活が将来に控えています。それやこれやを考え合わせると、果たしてハッピーエンドとばかり言えるかどうか、かなり怪しい感じはしますが。

(注3)双子の兄弟の兄は、弟が乗ろうとしている地下鉄がテロに遭うことを察知すると、弟が被っていた帽子を吹き飛ばして、ちょうど駅に入ってきた電車に弟が乗り込めないようにします。その直後に、その電車で爆弾が爆発しますから、弟は死を逃れたことになります。
 しかし、そうだとすると、生前の世界と死後の世界とが入り混じっていることになり、兄は亡霊的な存在といえ、むしろ『きみがくれた世界』のシチュエーションではないかと思います(そこでは、亡霊となった弟と生きている兄とが、森の中でキャッチボールをするのですから!)。

(注4)幼かった時分に悪いことをしてしまったと父親が料理教室の女性に対して謝っているところからすると、生前の世界に恨みがあったり言い残したことがあれば、死後の世界の入口近くにいつまでも居続ける(さまよう)ことができるのかもしれません。
 それにしても、恋人と思っていた相手(マット・デイモン)から、自分の幼児期のトラウマを暴露されてしまったら、やはり逃げ出さずにはいられないでしょう!

(注5)ミュージシャンの桑田佳祐が、昨年の食道癌手術から復帰し、2月23日にリリースしたアルバム「MUSICMAN」には、「銀河の星屑」という曲が収録されているところ、その歌詞には“死後の世界”が描かれている感じです(PVも、そんな感じが漂っています)。
たとえば、歌詞には、つぎのような下りが見受けられます。
「森を抜けると蓮の御池があってさ」
「水面に浮かぶ花を見て眩暈がしたよ」
「美しい女性(ひと)は微笑み手招きしている」
「痛みも苦しみも無い世界」
「何処かで母が呼ぶ声がする」
「なんてSpiritual」

 なお、このことは、2月26日に放映されたNHKTV「復活!桑田佳祐ドキュメント〜55歳の夜明け」で知りました(『銀河の星屑』は、1月11日からスタートしたフジテレビ系火曜9時ドラマ『CONTROL〜犯罪心理捜査〜』〔主演:松下奈緒〕の主題歌)。

(注6)臨死体験に関する事例については、立花隆氏の著書にもイロイロ掲載されていますが、このサイトでも取り上げられています。

(注7)事例としては、評論家の吉本隆明氏のものが典型的でしょう。
 たとえば、辺見庸氏との対談集『夜と女と毛沢東』(光文社文庫)で、1996年8月に海で溺れかけたときのことについて、「よく臨死体験なんていいますけど、そういう色鮮やかな、ロマンティックな経験じゃ全然ないんです。……とにかく、ふっと意識がなくなって、ふっと目が覚めただけなんです。……目が覚めて、一体何だと思ったら、もう病院の部屋にいたというだけなんですね」と語っています(P.183〜P.184)。

(注8)「天命反転」、あるいは「宿命反転」とは、「不可能だと思われていることを留保し、留保された位置から、可能性の広がりを考察すること」であり、「たとえば、これまで人間は、必ず死ぬものだと思われてきており、また事実死んできたが、ひょっとして人間は死なないのだということまで予定に入れることができれば、これまでの通念ととは異なる範囲で、可能性の幅、あるいは選択肢を考えざるをえなくなる」のであり、「かりに人間の経験の可能性に向けて、無限の試みが続けば、すでに宿命反転は現実化の段階に入っている」。
(荒川修作+マドリン・ギンズ著『建築する身体』〔春秋社、2004年〕に付けられた「基本用語解説」〔訳者・河本英夫氏による〕から)




★★★☆☆




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